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本屋の時間

2020.03.18 公開 ツイート

第79回

【体と心を整える】Hの微笑み【再掲】 辻山良雄

心をざわつかせるニュースが多いこの頃。不安のなかで、することに追われ、どこか気が急いて仕方がなかったとしても、自分を取り戻す時間をみなさんがどこかで見つけられますように。

*   *   *

普通なら会計が終わればそのまま帰っていくところ、お客さんがその場にとどまっているというのは、何か伝えたいことがあるというサインだ。その人はまだ小学生にもならないお子さんを二人連れたお母さんで、仕事できたようにも見えなかったのでなんだろうと身構えたが、すこしの間のあと「とても落ち着きました。よい時間をありがとうございました」とだけ話し、子どもを促して帰っていった。

三人を見送りながら、知り合いのHが、自分のための本を買うのは何年かぶりだと話したときのことを思い出した。かつては地方のテレビ局に勤め、どちらかといえば映画の話が多かった彼女は、学生時代は本格的な社会科学の本や外国文学も手に取っていたので、そうした話を聞くのは意外でもあった。

 

やっぱり本はいいねと、Hは自分の買った何冊かの本をいとおしそうに撫で、最近は息子の絵本ばかりだからと続けた。そういえばこのまえは一緒にいた息子さんがいないなと思いながら、絵本にも色々あって見てると面白いでしょと話を振ってみたところ、「まあね、でも本は自分のために買いたいから」と笑った。

ちょっとコーヒーも飲んでくわとHはカフェに入っていった。その日は彼女のほかにお客さんはなく、しんとしたなか、一時間ほどしてカフェから出てきた彼女の顔にはすこし生気が戻ったようで、それはわたしが知っている彼女の姿でもあった。

 

休みの日にはできるだけゆっくりと、自転車のペダルをこぐ。通常であれば5分で行ける距離のところを、わざわざS字にふらふらと進んだり、途中で自転車を停めて写真を撮ったりと、意識的にその倍くらいの時間をかけるようにしている。そうすると同じ道を通っても、そういえばそうだったと、普段は見落としているものの存在に気がつく。

「自転車をゆっくりこぐ」なんて、ここでわざわざ書くほどのことではないかもしれない。しかしそのような目的をもたない小さな動きにも、自分の全体性を回復させるヒントが含まれているように思う。

本屋が自分を取り戻すために役に立つのであれば、その人には気のすむまでゆっくりと過ごしてほしい。解放されたHの微笑みには、見ているわたしも素直になる、自然な力があった。

 

今回のおすすめ本

『びろう葉帽子の下で』山尾三省 野草社

屋久島に暮らし、個人の生きる実感から詩のことばを紡ぎ出した山尾三省。数多くの代表詩が収録された本書には、奇をてらうことのないことばのみが使われ、きっと心に響く一文が見つかると思う。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

◯2024年5月10日(金)~ 2024年5月28日(火)Title2階ギャラリー

キッチンミノル出版記念写真展「ひこうきがとぶまえに」
~航空整備士の仕事~

しゃしん絵本作家のキッチンミノルが出版社を立ち上げました。第一作目は、飛行機が格納庫に帰ってきてから、再び空に飛びたつまでの航空整備士さんの仕事を、JAL全面協力の元、キッチンミノルが温度感ある写真と文章追いかけたしゃしん絵本『ひこうきがとぶまえに』です。紙面では航空整備士の仕事や見たことない機器、機械類がページいっぱいに広がります。
今回は絵本の中の写真や惜しくも絵本には収めることができなかった写真を展示します。写真だからこそ伝わる迫力! 緻密さ!! 臨場感!!! 子どもだけでなく、大人も一緒に楽しめます。
 

◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化のお知らせ】

スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」がとうとう書籍化! 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。

『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』

著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Title予約サイト
 

 

【書評】

『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
 

【お知らせ】

「読むことと〈わたし〉」マイスキュー 

店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
 

黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編  / お買いもの編
 

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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