五月、店の営業を再開するとき、レジカウンターに透明のフィルムを設置した。フィルム越しに話すことは、最初、変わってしまった世界を否が応でも思い出させたが、いまその存在が意識にのぼることはほとんどない。
そうしたことはたくさんあって、さきほどまで話をしていた人が、帰り際にマスクを整える姿を見て、ああ、そうであったと、いまの状況を思い出した。あたらしいルールは身体に習慣化されているが、なんのためにそれをしているのか、肝心なことを忘れてしまったような……
なんのために?
現在カフェでは対面の席は作らず、お客さんには間隔をあけ、横並びで座るようお願いをしている。ある日、二人連れの若い女性がカフェに入ろうとしたとき、席は対面テーブルの椅子を間引いた、一席しか空いていなかった。
いま、お二人では入れません。妻がそう断ったところ、カウンターにいた初老の男性が、向かい合って座ることはできないのでしょうかと尋ねてきた。がっかりしている彼女たちを見て、かわいそうに思っているのはあきらかだった。
いや、それはうちではお断りしていますから。妻はわりと強めにいったと思う。「なぜ」の基準が揺れはじめたとき、それを示して秩序を取り戻すのは、その場を守るものの仕事である。
彼女はそのとき口だけではなく、身体もはっていた。そのささいなやり取りは、強く記憶に残っている。
荻窪は東京とはいっても、都心から離れた西のはずれで、店はそこからさらに歩いた場所にある。今年はほとんどの時間を、そうしたはずれの、家と店とのわずか一キロのあいだで過ごした。例年にもまして世間には疎くなったが、それだけ世のなかのペースに巻き込まれずにすんだのはよかった。
食の思想史が専門の藤原辰史さんは、現代の社会状況を表すのに、「資本主義」や「ファシズム」といった出来合いの用語を使うのではなく、「高速回転」が問題なのだと、独特のことばで表現する(『生活者のための総合雑誌 ちゃぶ台6』ミシマ社)。
「あそこによくわからないけど、ひたすら高速回転しているやつがいる」。近づくと巻き込まれ、消耗することはわかっていても、「もっと」という欲には人を動かす力があるのだろう。思えば自分の店をはじめたのも、人の力では制御できない、高速回転から身を遠ざけたかったのかもしれない。
「本を売った」という実感が、強く手元に残った一年だった。危機的な状況のなか、仕事自体は変わらなかったが、普段から行っていることの意味が、次第にはっきりと浮かび上がってきた。
社会がいっときスローになり、自分を見つめなおす人が増えたように思う。たとえば同じ本を紹介したことばでも、それがより深く、遠くまで届くようになったという感触がある。
それはこうした思うにまかせぬ一年であっても、よかったことの一つではなかったか。
コロナ禍がなく、予定通りオリンピックが行われた高速回転する世界には、わたしの居場所はなかっただろう。これまでと同じように、店をやっていたほうがよかったかと聞かれれば、決してそうだとは言い切れない自分がいる。
わたしはもうもどらない。
今回のおすすめ本
『死ぬまでに行きたい海』岸本佐知子 スイッチ・パブリッシング
ある記憶は、そこの土地と離れがたく結びついている。気になる場所を訪ね(ときには再訪し)、思い浮かんだことを綴るエッセイには、その人の人生がシリアスに描き出されていた。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2024年5月10日(金)~ 2024年5月28日(火)Title2階ギャラリー
キッチンミノル出版記念写真展「ひこうきがとぶまえに」
~航空整備士の仕事~
しゃしん絵本作家のキッチンミノルが出版社を立ち上げました。第一作目は、飛行機が格納庫に帰ってきてから、再び空に飛びたつまでの航空整備士さんの仕事を、JAL全面協力の元、キッチンミノルが温度感ある写真と文章追いかけたしゃしん絵本『ひこうきがとぶまえに』です。紙面では航空整備士の仕事や見たことない機器、機械類がページいっぱいに広がります。
今回は絵本の中の写真や惜しくも絵本には収めることができなかった写真を展示します。写真だからこそ伝わる迫力! 緻密さ!! 臨場感!!! 子どもだけでなく、大人も一緒に楽しめます。
◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化のお知らせ】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」がとうとう書籍化! 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Title予約サイト
◯【書評】
『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
◯【お知らせ】
店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。