大学生のとき、夜のレコード屋で、黒人のアメリカ人に話しかけられたことがあった。スーツを着てメガネをかけた真面目な投資銀行マンといった風情の彼は、「韓国人だよね?」と聞いてきた。「日本人」と答えると、「ほんとに?」と驚かれた。
ナンパだと思ったが、よくよく聞いてみると、日本に赴任したばかりで心細いし、同じ外国人だったらいろいろ聞けると思ったのだという。
「それにしても、君はあんまり日本人には見えない。親に確認したことある?」
母方、父方ともに、出自の物語のようなものはあって、それはどっちも日本の田舎にルーツがあるということだった。けれど、確かに「私は本当に日本人ですか?」と確認したことはないなあ。
「聞いてみればいいよ」
と言われたけれど、そのままになった。当時、私は遊びやバイトや男の子に精一杯で、それどころじゃなかったし、深く考えることもしなかったのだ。それに、親に聞いたところで、確実なことはわからなかっただろう。
若い頃は、こういうことがよくあった。外国で、中国人や韓国人にそれぞれの言葉で話しかけられたり、道を聞かれるようなことが頻繁にあった。マレーシアに出張したときに、泊まっていたホテルからタクシーに乗ったら「君みたいな若者がホテルで何してるの」と言われた。泊まってるんだよ、と言ったら、「ローカルにしか見えない!」と驚かれた。顔のせいなのか、若い頃はしていたメイクや服装のせいなのかはよくわからなかった。とりあえず旅人としては「ローカルに見える」ほうが得なのだとなんとなく思っていた。
すっかり忘れていたこういうことを思い出したのは、多様性のことを考えるなかで、自分のアイデンティティについて考えているからだ。
アメリカでは、相手の出自を聞くときに「Where are you from? あなたはどこから来たの?」と聞く。あなたは何人ですか? とは聞かない。
たとえば、ヒスパニックにも見えるし、インド人にも見える、といった人がいたとしよう。「あなたはどこから来たの?」と聞いて、「シカゴ」と返ってきたら、「この人は何人なんだろう」という疑問の答えにはならない。そういう場合は「What is your ethnic background?」と聞いたりするわけだ。
白人と一言に言っても、日本の人たちは、白人のエリートはだいたいWASP(ホワイト・アングロサクソンのプロテスタント)であるとか、ケネディ大統領はアイルランド系だったとか、その程度までは知っているかもしれないが、実際にはもっともっとたくさんの「白人」がいて、何人なの?と聞いてみたら、スコットランドとオランダとロシアと~と長い答えが返ってくることもある。同様に「黒人」と一言に言っても、アフリカから奴隷として連れてこられた人たちの末裔もいれば、ジャマイカ人だったり、アフリカからの移民の子供たちもいるのだった。
日本生まれ、日本育ちの自分にとって「Where are you from?」の答えは「日本」で終わってしまうわけだけれど、同じ質問への答えが何層にもなって返ってくることもある。たとえば、父親はレバノン人で、母親はイタリア人だけど、自分はベネズエラとマイアミで育った、とか。韓国人だけれど、白人家庭に養子に取られたから、アジア系アメリカ人ではなく、アメリカ人なのである、とか。母親はハンガリー系のユダヤ人で、父親は3代前からアメリカにいるユダヤ人である、とか。ジューイッシュ、というと、ユダヤ教徒のことを言う、と学校で教えられたけれど、それが人種的なことを指す場合もある。かつての同僚は、ロシア系のユダヤ人で、私の目にはまったく白人にしか見えなかったけれど、仲良い女ともだちの一人は、東欧系のジューイッシュのニューヨーカーで、彼女が「白人は~」という言い方から、自分を「ホワイト」と認識していないことがよくわかる。こういう細かいニュアンスを理解するには、長い時間がかかったけれど、日本に生まれ、日本に育った自分を夢中にさせるに十分だった。(以下次号)
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みんなウェルカム
NYで暮らすようになって20年。ブルックリン在住のフリーライターが今、考えていること。きわめて個人的なダイバーシティについての考察。