35年間未解決だった数学の超難問「ABC予想」を、京都大数理解析研究所の望月新一教授(51)が証明したことがニュースに! 世界中の数学者が頭を悩ませていた難問を、望月教授は“7年半”もかけて解いたそうです。
そんな望月教授と交流があり、『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』という著書でABC予想に挑んだ数学者・加藤文元先生。
小説家・二宮敦人さんが、日本の名だたる数学者の取材した、数学者ノンフィクション『世にも美しき数学者たちの日常』では、加藤先生にも会いにいっています。本書より、加藤先生に会いに行ったパートを公開!
* * *
数学について勉強することは、人間について勉強すること――加藤文元先生(東京工業大学教授)
黒川先生が「数学は鉛筆と紙だけあればできる」などと言っていたが、ひそかに僕には共感するものがあった。
「小説家とちょっと似てると思うんですよ。元手がいらないところが」
従業員を雇う必要もなければ、設備もいらない商売だ。袖山さんも頷いた。
「確かに。頭の中で作り上げるものですからね」
いわばどちらもお金がかからないというところに親近感を持っていたのだ。しかしそんな思い込みは、いきなり覆されてしまうことになる。
数学者は旅に出る
「数学はお金がかかる学問です」
ピアノが趣味だという加藤文元(かとうふみはる)先生は、端整なマスクでさらりとそう言った。
ここは東京工業大学、加藤先生の研究室。綺麗に整理整頓された室内は黒川先生の部屋とは正反対の印象である。
「え? 何に、お金がかかるんでしょうか……」
僕はおそるおそる聞いた。部屋の中を見回してみても本棚に専門書が並んでいるくらいで、特に高価な機械などはないようだが。
「もちろん工学系のように実験器具を買うということはありませんが、お金がかからないわけでもない。実は、旅費にかかるんです。どこかに行くでもよし、来てもらうでもよし、いろんな人に頻繁(ひんぱん)に会うということが数学ではとても大事なんです」
実際、加藤先生は東工大数学系の教授として忙しい日々を過ごす傍(かたわ)ら、イタリア、エジプト、フランス……あちこちに出張しているようだ。
「それは、どうしてですか。一人でやる仕事ではないんですか?」
「最終的に定理を証明するとか、問題を解くといった段階では一人になります。でもたとえば解析系の問題を解こうとする時に、解析の中だけで仕事をしていてもやっぱり限界があるんですよね」
「全く別の視点が必要ということでしょうか。しかし、全く違う分野の研究者が集まって、議論ができるものですか?」
「ゼロからディスカッションをしていくんです。たとえば『俺のところで今、こういう問題があるんだよ』と。すると他分野から『そんなの簡単じゃないか。こうするだけだ』と言う人がいる。『いや、そう単純にはいかないんだ。こういう問題があってね』『じゃあこうしたら?』というように、だんだん話が進んでいく。その中で、思いもよらぬ新しい発想が生まれてくる。ある分野の問題に対して、全然違う分野からのアプローチで道が開けたという話は、しょっちゅう聞きます」
「なるほど、そうしてヒントを手に入れるわけですね」
加藤先生は頷き、続けた。
「そうして話しているうちにいい感じになったら、共同研究をしたりもしますね」
「数学で共同研究というのは、どういうことをするんでしょう。俺はこっちを証明するからお前はそっちをやれ、というような形ですか?」
互いに背中を預け合って敵と戦うような場面を想像した僕だが、どうやら少し違うらしい。
「うーん、それはだいぶ煮詰まってからです。そこまで行く前に、ひたすら議論をします。大きな黒板やホワイトボードの前で、互いに数式を書いてみせたり消したりしながら……」
僕は脇(わき)をちらりと見た。研究室の壁幅いっぱいに、巨大なホワイトボードがかけられている。まさにここで、作業が行われているのかもしれない。
「他にも気分転換に二人で散歩したりとか、美術館に行ったり、動物園、公園、あるいはビールを飲みに行ったり……」
「え、動物園ですか? 研究室に缶詰というわけではないんですね」
「そうですね。人によってスタイルはいろいろだと思います」
思っていたよりもリラックスした雰囲気で研究は進むものらしい。
「数学で一番重要なことは、問題と一緒に生活することなんです」
ふいに加藤先生が言った。
「二十四時間、ずっと問題について考え続ける場合もあるし、頭の片隅に置いておいて、信号待ちの時なんかにふっと思い出して、考え直してみたりもする。とにかくそばに置いて一緒に生活することです」
リラックスどころではない。生活の一部のようだ。
「共同研究も、その人と共同生活をすることなんですね、問題と一緒に。食事に行く時も、旅行中も、遊びに行っても、その問題について話ができる状態にする」
頭の中で問題と一緒に生活している者同士が、さらに一緒に生活をするわけか。
「数学では『共鳴箱(きょうめいばこ)』という表現をすることがありまして。いい共鳴箱を持つことは重要なんですね」
「共鳴箱、ですか」
共鳴箱自体は音を出さない。しかしオルゴール単体では聞こえづらい演奏の音色を大きく、鮮やかにすることができる。
「聞き手に向かって話すことで、自分のアイデアが育っていくことがあります。二人の共同研究でも、片方がどんどんアイデアを出して、片方はひたすら共鳴するというスタイルもあるでしょう」
「じゃあ、中には共鳴箱としての才能がすごく優れているタイプの数学者もいるんでしょうか?」
「そうですね。私自身も、たくさん共鳴箱をやっていると思います」
加藤先生はにっこりと笑う。
「作家の雑談相手になって、アイデアを引き出すのが僕の仕事」と言った編集者さんがいた。「作家の壁打ちの壁でありたいので、いつでもなんでもぶつけてくださいね」と言った編集者さんもいた。何か難問に取り組む時、人は誰かと話すことで一人では越えられない壁も越えられるようになるのかもしれない。
共鳴箱システムは、数学に限らずいろんな分野で使われている気がした。
「そんなわけで、数学にはお金がかかり、その大半が旅費ということになるんですよ」
あちこちに出かけていき、様々な人とおしゃべりし、ビールを飲み、動物園に行く。週末はバーベキューなんかもしているかもしれない。とても社交的だ。勝手に抱いていた孤独な数学者というイメージとは、だいぶ異なる実態がそこにはあった。
中には一人きりで自分の数学を作り出せる人もいるが、それはごく限られた大天才だけだそうだ。
「では、仮に世の数学者がみんな集まる場所を作って、そこで毎日ディスカッションできる環境を整えたとしたら、数学の研究としては理想的なのでしょうか?」
「うーん、どうですかね」
加藤先生はしばらく答えを言いよどんだ。
「国際会議というものが四年に一回ありまして、それが恒常的にあれば、今よりはいいと思いますけど……」
「必ずしも理想というわけではないんでしょうか」
「そうですね。やっぱり学派ができてしまうんですよ。一つアイデアが生まれると、その中核だった人の周りで学派ができるんですが、そのアイデアを次のステップに昇華するのは、また別の学派なんです。ある程度遠くからその状況を見られる人でないと、アイデアを客観的に捉えたり、違った側面を追究したりしていくことができない。具体的な例はたくさんありまして、たとえばグロタンディックという数学者がいます」
おとといが彼の誕生日だったんですけど、と加藤先生は何気なく付け加える。
「新しい数学の空間概念を作り、いろんな意味で数学を変えた人です。彼のアイデアをたくさんの人がサポートして、大きく広げることに成功したんですね。これはフランスで起きたことです。でも、ポスト・グロタンディックとして本当に新しいことができたのは、アメリカと日本だったんですよ」
「むしろ遠く離れた国だったんですね」
「フランス人でグロタンディックをよく知る人は、その精神に固執(こしつ)してしまったと言われています。アメリカや日本からすると、もちろんグロタンディックは偉大な人だけれど、そうは言っても一番偉いのは数学だということで、新しく大胆に考えていけたんだと思うんですね。だから一点に集中してしまうと、必ずしも良いことばかりではないんです」
交流は必要とはいえ、近ければいいというものでもない。
何だか不思議な気分になる。人類がこの地球に住んでいるから、地球というのがこれだけの大きさの星だから、今日の数学の発展はあるように思えてきた。
「最近はグローバル化、グローバル化と言われてますけれど、やはりある程度のローカリゼーションはあった方がいいんです」
交流は必要。その一方で、ある程度離れていることも必要。となるとつまり。
「はい、旅費が必要なんです」
数学はお金のかかる学問なのである。
* * *
(つづきは、本書にてお楽しみください。『世にも美しき数学者たちの日常』絶賛発売中です)
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世にも美しき数学者たちの日常
「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!
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