NHK大河ドラマ『真田丸』でも注目を浴びた伝説の戦国武将、真田幸村。大阪夏の陣で宿敵・徳川家康を追いつめ、見事に散った幸村は庶民のヒーロー的存在となり、のちに「真田十勇士」という架空の物語まで生まれました。『真田幸村と十勇士』は、幸村の波乱万丈の人生と、十勇士の誕生に迫った一冊。なぜ幸村は、これほどまでに日本人に愛されるのか? 特別にその一部をご紹介しましょう。
* * *
これが「真田丸」の強さだ
十二月三日の深夜、真田丸の内部である事件が起こった。
幸村の配下に南条元忠という牢人があったが、実はこの元忠は徳川方の藤堂高虎に内応した者だった。
あらかじめ高虎と示し合わせたときには、「夜中にひそかに出丸の壁木を切り、明け方にその木を燃やして狼煙を上げます。それを合図に攻め込んでください。私も内側から兵を挙げますから、内外から挟み撃ちにすれば、出丸を容易に落とすことができるでしょう」ということであったという(『泰政録』)。
しかし、夜中に元忠が行動を起こすと、すぐに幸村の手の者に発覚して、捕らえられてしまった。裏切り行為に激怒した幸村は、元忠を即座に処刑したが、そればかりではなく、逆にこのことを利用してやろうと考えた。つまり、こちらから偽の狼煙を上げて、敵をあざむいておびき寄せようとしたのである。
夜が明けた十二月四日の早朝、真田丸の櫓から煙が上がった。これを見た徳川方の前田利常、松平忠直、井伊直孝らは、てっきり元忠の合図だと思い込み、猛然と攻撃を開始したのだった。
真田丸の前方の空堀を渡った徳川勢は、先を争って土塀をのぼり始める。その間、真田丸からは何の攻撃もしてこないから、徳川勢はますます内応が成功したものと信じ込んだ。
が、これも幸村の謀略だった。
兵たちは勇み立ち、反撃しようと主張するが、幸村はなかなかそれを許そうとはしなかった。しかも自分は柱にもたれて黙り込み、まるで眠ってでもいるかのような落ち着きようであったという。
その姿は、往年の父・昌幸を思い起こさせる。上田城を敵に攻められたとき、昌幸も悠然とかまえて囲碁などを打っていた。そして、ぎりぎりのところまで我慢してからようやく反撃に出る。そうすることで兵の瞬発力を最大限に生かした、いわばカウンターパンチを打つことができるのだった。
徳川勢を叩き潰した「真田戦法」
この真田戦法を、幸村は父から受け継いでいた。やがて、十分に敵を引きつけて、頃合いはよしとみた幸村が、兵に向かって大声で下知した。
「敵を皆殺しにして武名を上げるのは、この一挙にあるぞ」(『武将感状記』)
待ちに待った攻撃命令に、兵たちはそれぞれの持ち場から、弓、鉄砲で一斉射撃を開始した。徳川勢は驚いたが、すでに遅い。雨のようにそそぐ矢弾の前に次々と倒され、屍となって土塀の下に積み重なっていった。
もともと高台に設けられた真田丸であったから、寄せ手を見下ろして戦うことのできる真田勢が有利であっただけでなく、弓、鉄砲の多くは小さな狭間から撃っていた。矢狭間、鉄砲狭間というのは、土塀をくり抜いて造った穴のことで、これを利用して撃てば敵の攻撃を受ける危険が少ない。徳川勢はどうすることもできず、犠牲者を出し続けたのだった。
ところで、このとき活躍した真田勢の鉄砲手のなかには、九度山村の猟師出身の者が多く含まれていたという。『鉄砲茶話』によれば、幸村は九度山村で暮らしていたころ、いずれ徳川との合戦があると予想して、地元の鉄砲名人たちと親交を深めていたとあり、それらを大坂城入りのときに随行させたとされている。
九度山村から脱出するさいに地元の者も数十人同行させたという話はあるので、そのなかに猟師たちも含まれていた可能性は十分にある。真田勢の射撃の精度が高いのは、事実、彼らの活躍のためであったかもしれない。
結局、夕刻になって徳川勢は退却していったが、この日の真田丸をめぐる戦いだけで数百人とも千人ともいわれる戦死者を出すことになった。これは、冬の陣における徳川勢の総戦死者のなんと五分の四にあたるというから、幸村の奮戦ぶりがいかにめざましかったかがわかるというものである。