NHK大河ドラマ『真田丸』でも注目を浴びた伝説の戦国武将、真田幸村。大阪夏の陣で宿敵・徳川家康を追いつめ、見事に散った幸村は庶民のヒーロー的存在となり、のちに「真田十勇士」という架空の物語まで生まれました。『真田幸村と十勇士』は、幸村の波乱万丈の人生と、十勇士の誕生に迫った一冊。なぜ幸村は、これほどまでに日本人に愛されるのか? 特別にその一部をご紹介しましょう。
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家康本陣に決死の突撃
そんな幸村の決意を聞かされた伊木遠雄らも、もとよりそのつもりでいたから話は早かった。「おう」とばかりに応じると、みな思い思いに最後の戦いに出る支度を始めた。
幸村の鎧は緋威、兜は白熊付きの鹿の抱角を打ち、馬は日ごろから養っていた白河原毛、鞍には木地金の六連銭の紋をあしらい、紅の厚総で美麗に飾った。
この馬は、かつて原貞胤と対面したときに披露した駿馬であり、兜もそのときのものだ。幸村はあのとき貞胤に語ったとおりの出で立ちで戦場におもむき、いさぎよく散ろうとしていたのだった。
一般に、幸村は自分の軍勢を赤備え、つまり甲冑から旗差物まで赤色に統一させていたというが、そのことを証明する記録は意外と少ない。ただ、『武徳編年集成』には、この日の真田勢について次のように記述されている。
「茶臼山には真田が赤備、躑躅の花の咲きたる如く、堂々の陣を張る」
ツツジの花が咲きほこっているかのように、赤備えが映えていたというのである。なんと美しい光景であったことか。死にのぞむ男たちの覚悟が、真っ赤な花のような色に込められていたのかもしれなかった。
茶臼山から駆け降りる幸村に従っていたのは、伊木遠雄、渡辺糺、大谷吉治、御宿政友、江原右近以下一万ばかりの決死兵だった。
めざすのは天王寺の南に位置する家康本陣のみ。家康の首さえ取れば、戦況を一気に逆転することができる。
決死の幸村隊を迎え撃ったのは、松平忠直の軍勢だったが、一直線に錐をもむように突き進む幸村隊の前には、陣形を保つことができなかった。火花を散らすせめぎ合いの末、ついに幸村隊は忠直隊の守備を突破、一路、家康本陣に向かって疾走する。
本陣前には家康一族の駿府衆が控え、幸村隊の行く手を阻んだが、幸村はこの守りも突き破って進んだ。幸いに本陣近くの者は意外に戦慣れしておらず、比較的容易に突破することができた。
幸村の壮絶な最期
そして、ついに目標の家康本陣が幸村の視界に入ってきた。
本陣は家康の旗本勢によって守られていたが、まさかこれほどまでに鋭い突撃があるとは想定していなかったから、すぐに迎え撃つことのできる旗本はほとんどいなかった。
そのため、幸村隊の先鋒が到達すると、みなあわてふためき、あろうことか肝心の家康を置いて逃げ散ってしまった。家康を連れて逃げようとしたのは、小栗久次という家臣ただ一人であったというから、いかに旗本勢が狼狽していたかがわかる。徳川の旗印や陣幕も滅茶苦茶に倒され、本陣は一瞬にして壊滅状態となってしまったのだった。
家康がここまで窮地に追い込まれたのは、かつて三方ヶ原の戦いで武田信玄にやられたときと、このときの二度だけであったという。幸村の執念は、そこまで家康を追いつめることに成功したのである。
しかし、それもここまでだった。
増援された旗本勢のために視界をさえぎられ、あと一歩のところで家康の逃亡を許してしまったのだ。執念の槍は、ついに家康の首に届かなかったのである。
このあと反撃に出た徳川勢のために、幸村隊は退却を余儀なくされ、敵兵の群がるなかを命からがら引き上げることになった。再び茶臼山に戻ったときには、兵のほとんどは散り散りとなり、幸村自身も深手を負っていた。
茶臼山の北の安居天神にたどり着いたときには、付き従う将は高梨内記、青柳清庵、真田勘解由のわずか三人だけだった。高梨と青柳は、幸村とは九度山村以来の主従だった。
そこに、徳川の松平忠直の手の者が迫ってきた。名乗りをあげたのは西尾久作(のち仁左衛門)という無名の武将だったが、疲れ果てた幸村らには、すでに抵抗する力は残っていなかった。三人の家臣とともに幸村は討ち取られ、その四十六年の生涯を終えたのだった。