NHK大河ドラマ『真田丸』でも注目を浴びた伝説の戦国武将、真田幸村。大阪夏の陣で宿敵・徳川家康を追いつめ、見事に散った幸村は庶民のヒーロー的存在となり、のちに「真田十勇士」という架空の物語まで生まれました。『真田幸村と十勇士』は、幸村の波乱万丈の人生と、十勇士の誕生に迫った一冊。なぜ幸村は、これほどまでに日本人に愛されるのか? 特別にその一部をご紹介しましょう。
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真田幸村は実は生きていた?
大坂夏の陣で戦死した真田幸村が、実は死なずに生きていたという噂は早くから人々の間でささやかれていた。
幸村だけでなく主君の秀頼も生きており、幸村は秀頼を奉じて薩摩鹿児島に逃亡したという話がまことしやかに語られていたのである。
「花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」
『幸村君伝記』には、このような歌が大坂落城後に京都の子供たちの間ではやっていたと記されている。真田は鬼のようといっているのがおかしいが、幸村には生きていてほしいという人々の願望のようなものがうかがえる。
それは、弱い者や負けた者に肩入れしようとする、日本人特有の判官贔屓でもあっただろう。鎌倉時代の源義経が死なずに大陸に渡ったとする伝説がつくられたように、幸村にも強大な徳川に対抗して敗れた悲劇のヒーローとしての人気が集まったのだった。
幸村の人気は、徳川の世にすでに庶民の間で広まり、江戸時代前期の寛文十二年(一六七二)に成立した軍記物語『難波戦記』において、大坂方の勇将として大活躍を見せている。
さすがに同書では幸村は生き延びることはなく、最後は戦死をとげるのだが、注目されるのは幸村を守って何人かの架空の家臣たちが活躍していることだ。その名は、三好清海入道、三好為三入道、由利鎌之助、穴山小助、海野六郎兵衛、望月卯左衛門の六人。
ほかにも同書には架空の家臣が登場しているが、そのなかで彼ら六人は別格の存在として、のちに物語の上で幸村とともに戦う豪傑集団に成長していく。──それが、「真田十勇士」だ。
『難波戦記』においてはまだそこまでの展開は考えられていないから、六人の活躍はそれほど目立ったものではない。それが進展を見せたのは、江戸時代後期に成立した『真田三代記』でのことだった。
同書は幸隆─昌幸─幸村という真田家三代の事績を綴ったものだが、歴史書ではなく軍記物語、つまり小説に近いものだということに注意が必要だ。したがって、その記述はかなり自由で、なんと同書では幸村が戦死せずに生き延びたことになっている。
この『真田三代記』は、徳川を真田がこらしめるという内容であったため、江戸時代には正式に出版はされなかった。人々はひそかに筆写して写本をつくり、徳川がこらしめられる展開に溜飲を下げていたのである。
「真田十勇士」の誕生
そんな世界観のなかで、幸村を守る架空の豪傑として、前出の顔ぶれに根津甚八、筧金六が加わって合計八人が登場するようになった(望月については卯左衛門ではなく、望月六郎兵衛と望月主水の二人に分かれて登場するなど少々複雑だ)。
すでに江戸時代の段階で八人の勇士が揃っていたことには驚かされるが、明治の世になって、講談の登場人物としてさらに二人のヒーローが創りあげられた。それが、猿飛佐助と霧隠才蔵である。
彼らは不思議な忍術を使って敵を翻弄する忍者として活躍し、一躍、庶民の人気者となった。やがてこの人気を見た大阪の出版社・立川文明堂が、講談を本に仕立てた「立川文庫」シリーズを明治四十四年に創刊し、その第五編として『智謀真田幸村』を刊行した。
「立川文庫」は総ルビの入った読みやすい本として庶民、特に若い人の爆発的な人気を得、通算二百巻にも及ぶ大シリーズとして刊行が続けられた。なかでも真田を扱った作品は人気が高く、主力商品として多くの真田ものが刊行されたのだった。
このうち第五十編『大阪城冬之陣』のなかで、「真田十勇士」という呼称が初めて登場する。姓名も、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好為三入道、由利鎌之助 穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八と整理され、主君真田幸村を守って大活躍するようになるのである。
ただし注意しなければならないのは、立川文明堂の立川文庫以外にも、十勇士が登場する作品があるということだ。真田十勇士を創ったのは立川文明堂であり、現代的にいえば著作権がありそうなものだが、そういうことにまだおおらかだった時代、他社が十勇士作品を平気で出版していたのだった。
また、昭和に入ってからの作家も独自に真田十勇士をテーマにした小説を書き、そういうことが繰り返された結果、どの十勇士が本当の姿なのか大変わかりにくくなっているのが現状なのである。