彼女が、織田一真と交際をはじめたきっかけは誰も知らなかった。サッカーで言えば、密集したゴール前にどういうわけかぽっかりとスペースが空き、そこに飛び込んできた気紛(きまぐ)れなストライカーが点を決める、そんな具合に、織田一真は交際をはじめていた。あんなに必死に警戒していたのに、とディフェンス陣は、僕も含めて啞然(あぜん)とした。
ただ面白いことに、多くの男子生徒には、失恋の衝撃に打ち沈む気配はあまりなく、「まあ、織田なら大丈夫だろう」というような安心感のほうが強く漂っていた。「織田は確かに二枚目の部類ではあるが、その二枚目度合いを相殺(そうさい)してあまりあるほどに、変わった性格であるし、長いこと、彼女を繋(つな)ぎとめられるわけがない」と誰もが感じていたのだ。インフルエンザに罹(かか)らないために、弱いウィルスを体内に入れるという予防接種の理論ではないが、他の手強(てごわ)い男と交際されるよりは、織田一真を彼氏として宛(あて)がっておくほうがいいのではないか、と感じていた可能性もある。
まさかその翌年に、彼女に子供ができるとは誰も予想していなかった。
「結婚する」と織田一真が、僕に言ったのは、大学三年の夏のテストが終わった直後だった。「まだみんなには言ってねえけどさ」
僕は、織田一真とは比較的、仲が良く、彼の無軌道ながらあっけらかんとした性格が嫌いではなかったので、あまり不快感は覚えなかった。ただ、「だから、俺、大学辞めて、働こうと思うんだよ。もともと、学校好きじゃねえし」と言ってきたことには、反対した。これから彼女と暮らし、子供を育てるつもりなら、大学を卒業し、安定した仕事に就くべきではないか、と。すると彼は、「安定した仕事って何だよ」と軽やかに言い、実はよ今、バイトしてる居酒屋がチェーン店を出すんだけど、店長になれそうなんだよ、と嬉々と話しはじめた。
「彼女はどうするわけ」
「まあ、子供産むしな、学校辞めて、後は、まあ、どっかでパートとかバイトで働くってよ」
校内の男子生徒は状況が明らかになるにつれ、ある者は公然と、ある者は密やかに、呪(のろ)いとも怒りともつかない思いを投げつけたが、織田たちは臆(おく)することも恥じることも威張ることもなく、大学をあっさり辞め、結婚生活をはじめた。何人かの男子生徒は、どうせ織田一真がまともな結婚生活を続けられるわけがないのだから、いずれ離婚する時が来るだろう、その暁(あかつき)には俺が、彼女を支え、子供を含めて、守っていくのだ、と表明していたが、彼らが別れることはないだろう、と僕はなぜか確信していた。
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