不摂生がたたりアルコール性肝炎を発症、γ-GTPの数値、4000台を叩き出した道太郎。1年後、61歳にして肝硬変を宣告される。さらに食道がん、胃がんが身体を襲う。献身的な妻、親思いの娘、美しき女友だち、犬。そんな闘病中、自身の身体が起こす奇跡も知る……。芥川賞作家、高橋三千綱さんの『ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病』は、自身の闘病経験を下敷きにした自伝小説。作品の冒頭部分を、抜粋してお届けします。
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1 二〇〇八年(平成二十年)五月初旬から五月末まで
村山医師から見限られ、落ち込んでいた私を激励してくれたのは、大東京スポーツ新聞社から舞い込んだ連載コラムの依頼だった。週一回、四百字詰め原稿用紙にして三枚半の連載であるが、決められたシバリは何もなく、「道太郎の好きなように書いてくれていいよ」という担当の坂本良治からの言葉が添えられてあった。
坂本は元同僚である。そして坂本の上司にあたる新社長の江畑幸信も部こそ違え元同僚であった。新社長は最初の仕事として橋本道太郎の連載コラムをひねくり出してくれたのである。友情とはありがたいものである。ふたりは元同僚というだけでなく、当時、私が創設した草野球チーム「レッドハッタリーズ」の一員でもあった。当時、というのは私が作家デビューするきっかけとなった群像新人文学賞を受賞した頃のことであり、私は二十六歳であったから、今から三十四年も前のことになる。そこまで親身になってくれたのはなぜか私が毎晩ヤケ酒を飲んでいると聞いた新社長が健康を心配してくれてのことであり、多少なりとも新しい仕事を提供すれば新鮮な気持が蘇るのではないかとおもんぱかってくれてのことであった。大東京スポーツ新聞社にいた頃、長嶋茂雄命だった我々は、女友達との約束をすっぽかして、新宿ゴールデン街でよく呑んだものだった。
江畑は私が新人賞を受賞した直後に、アルバイトは禁止という条項に触れるという理由で会社を放り出されたとき、今後どうやって生活費を捻出するつもりかとしきりに心配してくれた。
一九七四年(昭和四十九年)の頃、新人がもらえる文芸誌「群像」の原稿料は一枚千円であった。百枚書くと十万円もらえたが、それだけ書くのに少なくとも二ヶ月はかかった。それも書いたもの全てが掲載されるわけではない。ああだこうだと編集者から難癖をつけられ、何度も書き直した末にようやく日の目をみるのである。だが、発表すると今度は批評家から叩かれる。新聞の文芸批評で「橋本道太郎の新作は読後感さっぱり」と見出し入りで酷評されたこともある。自分では一編の小説も書けない者からここまで偉そうにこき下ろされる覚えはない、と思いながらも抗議が許されないのが新人の悲しさである。新人は蜜を持って迎えられ、変態ジジイから鞭で叩かれるという開高健氏がいった言葉が身に染みていた頃であった。
「大学時代の友人に刑事コロンボの編集をしているやつがいるんだが、もしやる気があるのなら声をかけてみるが、どうだい?」
居酒屋で数杯の水割りを傾けたあと、江畑はなぜか遠慮がちにそう言い出した。やる、と私はふたつ返事で引き受けた。刑事コロンボのノベライゼーションを二週間で脱稿させると、六十万円の原稿料が出版社から与えられた。それを機に他の社でも翻訳の仕事をすることになった。一冊翻訳すれば百万円近い報酬になり、それは同居し始めたのちの妻の母親にも信頼感を与えるきっかけにもなった。その後毎年三冊のペースで翻訳やらノベライゼーションをするようになった。なんせ府中刑務所の独房をモデルに設計したと噂のある安ホテルで二週間ほど呻いていれば帯封された札束が一丁上がりという感じで懐に飛び込んでくるのである。「ブルース・リー」シリーズの映画を小説化したこともあり、たまたま東銀座の松竹セントラルでその映画を見たとき、私の本を売店で買ってもらっている小学生を目撃したことがあった。野球帽を被った少年は祖母とおぼしき女性から、ホントにそれ読むの? と訊かれ、うん、とけなげに答えていた。なんとなく貧しげなふたりの後姿を見送りながら、私は名乗りを上げるべきか、数秒の間、逡巡していた。結局、話し掛ける勇気は湧かず、ありがとう、と胸の内で感謝して映画館をあとにした。今、あのときの少年も四十代後半になっていることだろう。
江畑の思いをありがたく受けた私は連載コラムの二回目に命の大切さを訴えるつもりで、γ-GTPが3895になったという自分自身の実話を書いた。すると「そんなのはハッタリだ。作者は話を面白くしようとしてでっち上げているのだ」という投書と相当数の質問メールが大東京スポーツ宛に送られてきた。
「γ-GTPが3000を超えて平然と生きていられるはずはないという人が多いんだよ。おれだって毎晩飲んでいるけど、γ-GTPは150くらいだぜ。あれって本当の話なんだよな」
そう坂本良治から電話がかかってきたので、温厚な私もさすがに憤慨した。ならば証拠をみせてやるといって、γ-GTPが4026と示された血液検査報告書をファックスした。そのことが悲しい事実であると翌週のコラムでも書いたのである。今度はさすがにハッタリだ、大ボラだという投書はなくなったが、それだけの数値で生きていられるのには何か秘訣でもあるのかという疑問が寄せられた。みな糖尿病を患っている人か、そういう身内をかかえて呻吟している家族からの問い合わせだったのである。そうこうする内、健康をテーマにした月刊誌から新連載エッセイの注文が入り、糖尿病患者用に発行している季刊誌からも対談の依頼と同時に連載エッセイも頼まれた。講演会の依頼もきた。糖尿病でも酒をたしなみつつ楽しい日々を送ることができるというのがテーマだった。それから「日本病院会」からも、テーマ自由で結構です、お好きなことを喋ってくださいという恐るべき講演依頼が寄せられた。病院会というのは全国に散らばっている中・大病院の理事長、院長がメンバーになっている組織で、赤十字、共済病院が会の中心になっていた。自分ができることなら、依頼された仕事はなんでも引き受けるというのが私の信条であったから、当然その講演依頼も請けた。それが五月十日からわずか二週間の間に起こったことなのである。私は相変わらず、昼酒を飲みながらこううそぶいていた。
「糖尿病になるのなら思い切ってγ-GTPの4000超えを狙わなくては商売にならない」
確かに商売になりかけていた。だが、五月の末になって、妻の母親が突然首を吊って自殺するという訃報を浴びせられ、涙する妻と共に北茨城市にある妻の実家まで飛んでいった私は、そこでずっと酒浸りになり、葬式のあともいじきたなく酒を飲み続け、ついには意識を失い、深夜救急車で病院に担ぎ込まれるという大失態を演じてしまったのである。
頭の中が混濁し、記憶も切れ切れになっていた。随分あとになってあれは急性の肝性脳症だったのではないか、と肝硬変の合併症を思われる症状を思い起こして溜息をついたものだった。だが担ぎ込まれた県立の病院の扱いはひどく、家から呼び出されたという医者は不機嫌で、五十がらみの女看護師も冷たかった。ひどい顔のバラライカみたいな看護師は看病にあたった妻に、私が寝ているベッド脇にわずか30センチほどの隙間を与えて、奥さんはここで寝てくださいと冷たく言い放って屁までこいて廊下を歩き去っていったのである。南瓜の臭いの混じったくさい屁であった。
私は点滴袋から延びた管先にくっつけられていた針を自ら引っこ抜き、妻の末弟を呼び寄せてそのまま茨城県立病院を出てきた。義弟の運転する車の中で再び意識が遠のき始めた私は、これは血糖値が急激に上がったための症状であり、脱水症に似た症状が出て下手をするとショック死をすることもあるが、今は死ぬ時ではない。薬のため低血糖になったかもしれない。君は決してあわてず、私にポカリスエットを与えてくれるだけでいい。安静にしていればこいつはやがて落ち着くはずである、とだけ伝えて妻の実家に戻り、その敷地内に私が建てて義母に与えた母屋続きのふた間の部屋で眠った。二日前に義母が首を吊った隣の部屋から、義兄の嫁から受けた冷たい仕打ちへの怨念めいた恨み言が聞こえてくるのを耳にしながら、いつかあの嫁に天罰を与えてやると揺れる頭を枕の上で転がしながら復讐を誓っていた。
翌々日、私はいったん常磐線でひとり東京に戻った。身体は完璧からはほど遠かったが、義母のいなくなった妻の実家には一日たりともいたくなかったのである。いい人であった。作家志望の全く将来性のない男に対して、岳父の親戚筋や義母の親戚、当時恋人だった妻の従弟などは私に冷たい視線を向けてきたが、義母はいつでもやさしい目を注いでくれていた。五十一歳の夫を肺癌で亡くしたあとは近くの工場で働き、男三人、女ひとりの子供を育てあげた。
義母が自室でハンガーを使って自ら首を吊ったのは病気を苦にしてだと一緒に住んでいた義兄はいっていたが、私は納得していなかった。親子の間でも憎悪は増す。その間に入って潤滑油の務めをするのが嫁の役目なのに、義兄に増して義母を冷たくあしらったとしか私には思えなかった。キリギリスのような目つきと体型の女には底意地の悪い性格が宿っている。実家に戻った私の妻に対しても、朝飯には自分たち家族五人の残り物を無造作にテーブルに置いておくほどの嫌みな女だった。義母は自分用の食事は自分で料理していたらしいが、それもつらくなってくると、時折長男の嫁に食事の用意を頼むこともあったらしい。だが、出される食事は飼っていた犬の餌にも劣る代物で、義母は大いに縮こまり、ますます家での居場所がなくなったと義弟から聞かされた。ごく稀に娘に甘えるように、テレビショッピングでこんなマッサージ機が売られていた、と妻に電話をかけてきていたという。妻はそのたびに機具を取り寄せたり、家電量販店で買ったものをせっせと送っていた。そのたびに義母は大喜びをしていたという。そんな義母が娘に電話を寄こさないまま、自ら命を絶つというのは余程悔しい思いをしたか、恥ずかしい目に遭わされたかしたに違いないと私は推察していた。義母の怨念を晴らすまで死ぬわけにはいかないと初めて生への渇望を覚えた時でもあった。
だが家に戻ると復讐への誓いはすぐに忘れ、五月末の夕風を受けながら寿司屋までの坂道を歩いて下り、カウンターに肘をついてぬる燗を飲みながら肴をつまむ毎日を送りだした。酔いが回るのが早くなったと自分でも気付いたのは、二合徳利を二本飲み干すと椅子から立ち上がるときにふらつくことがあったからだ。心臓にバイパスを通した寿司屋の主人が、橋本さん、無理しちゃいけないよ、というのを聞いて、いよいよ限界かなと自分自身思っていた。周囲では六十の声を聞いた同世代の人たちの相次ぐ訃報が、埃にまみれた風に吹かれた私の元に寄せられてきた。みな、定年退職後にはゴルフでシングルを目指すといったり、釣り三昧の生活を送りたい、といっていた連中である。なかには四十代半ばで買った建て売り住宅のローンを支払うために、六十五歳まで今の会社でねばるのだ、と新たに気を引き締める者もいたが、結局は身体のどこかに巣くった癌や、脳、心臓の欠陥で病床につき、痩せ細って死んでいった。彼らを見送るたびに、次はおれの番だという思いが毎晩、床につく前に胸を揺るがせた。そのまま、参列したばかりの友人の葬式から、死の床にある自分らしい男の影が漂う夢に続いて入っていくこともあった。このまま負け犬で死んで何になる、と奮い立って原稿用紙に向かうこともあった。だが指先が震えて一枚も書けずに書斎から逃げ出すことを繰り返した。