そのままを見る、感じる、記憶する――。
1975年、高校1年の夏にたったひとりでソ連、東欧を歩いた少年・佐藤優のまっすぐな旅の記録『十五の夏』(幻冬舎文庫、上下巻)からの試し読み。
* * *
■マサル少年のこれまで
チューリッヒを出たマサルは、国境の街シャフハウゼンに一泊だけし、市街を歩き回る。ユースホステルに泊っていたスイス人やドイツ人らと情報交換し、いよいよプラハへ向かった。
シャフハウゼンの駅で、プラハ行きの切符を買いたいと言うと、列車の席が指定になっているので、ミュンヘンまでの切符しか売れないと言われた。仕方がないのでミュンヘンまでの切符を買ってシュツットガルト行きの列車に乗った。途中、スイスと西ドイツの国境を越える。国境警備員も税関職員も入ってこずに、何の検査もなく国境を越えた。僕が乗った二等車のコンパートメントには、荷物をたくさん持ったイタリア人の家族が乗っていた。親子4人だ。英語を話さないので、身振り、手振りで意思疎通を試みた。この家族はイタリアのシチリア島からやってきて、これからハンブルクに出稼ぎに行くということだった。
チューリヒのユースホステルで、東ドイツに親戚がいるという西ドイツの青年から、「東ヨーロッパではチョコレートが欠乏している。スイスのチョコレートを持っていくと喜ばれる」と教えられたので、僕はシャフハウゼンの駅の売店でチョコレートを5枚買った。日本のチョコレートの倍以上ある大きな板チョコだ。イタリア人の子どもたちにこのチョコレートを1枚渡すと、あっというまに2人でたいらげてしまった。お腹が空いていたようだ。両親からはとても感謝された。
シュツットガルトが終点なので、僕もイタリア人家族も列車を降りた。イタリア人家族はハンブルク行き、僕はミュンヘン行きに乗り換える。乗り換え時間が1時間くらいしかない。僕は駅のベンチに座って時間をつぶすことにした。シュツットガルトの駅は、ほんとうに田舎駅という感じだった。チューリヒの中央駅は大きかったが、清潔で整然としていた。それと比較するとこのシュツットガルト中央駅は薄暗く、人通りが多い。ゴミ一つ落ちていないのはスイスといっしょだ。スイス人もドイツ人もきれい好きなのだろう。
列車はスイス鉄道と同じく青色だが、DB(ドイツ鉄道)というロゴがついた列車が入線した。早速、二等車に乗った。僕のコンパートメントには結局、ミュンヘンまで、車掌が1回、検札に来た以外、誰も入ってこなかった。ドイツでは鉄道で移動する人は少ないのだろうか? そう言えば、シャフハウゼンで会った実業学校の学生たちも「鉄道は高いので、バスで移動することの方が多い」と言っていた。ミュンヘンに着く頃には、景色は薄暗くなっていた。
駅で降り、切符を買うために外に出ようとした。突然、大きな笑い声がした。「ヤポニヤ マサル・サトウ」と言っている。僕のことを笑っているのだ。振り向くと、食べ物を売っている店で白衣を着た中年の売り子が僕のスーツケースを指さして笑っている。僕はスーツケースが紛れないように、片面にローマ字で「MASARU SATO, JAPAN」、反対側にキリル(ロシア)文字で「MACAPY CATO ,」と白マジックで書いておいた。中年の売り子はこのキリル文字を指して笑っているのだ。この中年の売り子だけでなく、この駅にいるすべての人が僕をあざ笑っているような嫌な感じがした。
駅の案内所で「プラハ行きの切符を買いたい」と言うと「指定席券売り場に行きなさい」と窓口を指定された。この窓口には2~3人が並んでいたが、時間がとてもかかる。30分くらい待たされて僕の順番になった。僕は「プラハまで、二等車の片道切符をください」と言った。そうすると駅員がぞんざいな声で質(ただ)した。
「プラハまで、二等車の片道だって?」
「そうです」
「ビザは持っているのかい」
「持っています」
「パスポートを見せて」
僕はパスポートを見せた。駅員はチェコスロバキアのビザの部分をチェックして、パスポートを投げるようにして返した。そして、切符は三十数マルクだというので、50マルク札を出すと駅員は、「ダンケ・シェーン(ありがとう)」と10マルク札、お釣りといっしょに切符を投げるようにして戻してきた。
さっきの白衣の店員のあざ笑う声と駅員の乱暴な態度で、僕はすっかり西ドイツが嫌いになった。スイスと西ドイツはまったく別の国のように思えてきた。列車が出るまでに2時間くらいあったが、街に出る気にはならなかった。また、食欲も湧かなかった。
DBのロゴが入った電気機関車にひかれて十数両編成の列車が入ってきた。このうちのどこかにプラハ行きの車両が連結されているはずだ。真ん中あたりに、プラハ行きの車両があった。タラップの横の差し込み式の表示に白地に黒文字で〈MÜNCHEN-PRAHA〉と書かれた鉄の板がはさまれている。おなじような車両がもう一両あった。それ以外の車両には、プラハという表示が出ていない。チェコスロバキアに行くのはどうもこの2両だけのようだ。指定された車両に入った。コンパートメントは8人掛けの椅子になっていた。
コンパートメントでは2人の女性と乗り合わせた。姉妹だという。姉は30歳前後で、夫がチェコ人だという。夫はピルゼンに住んでいるが、チェコスロバキアから出国することができないので、2~3カ月に1回、こうしてドイツからピルゼンを訪ねているという。妹はギムナジウムに通っているが、今は夏休みなので、こうして同行させることにしたということだ。妹は僕よりも2つ年上の17歳だった。
姉は、「結婚して10年近くなるけれど、もうこういう状態が7年も続いている。ビザが出ないこともあるので困る」と言っていた。
そのときは気付かなかったが、後で考えてみると7年前というと1968年だ。この年の8月20日未明、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構5カ国(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア。ルーマニアはワルシャワ条約機構に加盟しているが出兵を拒否)の軍隊がチェコスロバキアに侵攻した。そして、当時、チェコスロバキア共産党指導部が進めていた「プラハの春」と呼ばれる民主化運動を叩き潰した。その後、この運動に参加して、転向しないチェコ人、スロバキア人はパスポートを取り上げられ、出国ができなくなった。このドイツ人女性の夫もそのような一人なのであろう。ただし、列車の中で話しているときには、僕はそのことに気付かなかった。
列車がチェコスロバキアの国境に近づくにつれて、次々と車両が切り離されていく。最後にドイツの入国管理官の制服を着た男がやってきて、パスポートを見て、西ドイツの出国印を押した。それから、西ドイツの税関職員がやってきて、「申告を必要とする物を持っていたら伝えてください」と言った。僕もドイツ人姉妹も「特に申告する物はありません」と答えた。
国境の手前で、ドイツ側の入国管理官、税関職員が列車から降りた。外を見るとあちこちに柵があり、有刺鉄線が張られている。国境から列車がチェコスロバキア側に入った途端に全員が車両から降ろされた。そして、小さな駅舎に連れていかれた。制服を着た入国管理官が出てきて、パスポートを取り上げた。そして、資本主義国と社会主義国の人間が分けられた。
資本主義国の人間は、僕とドイツ人姉妹を含め十数人しかいなかった。僕はこのドイツ人姉妹の後ろについて、入国審査の列に立った。入国審査では、ビザの紙が1枚切り取られた。それから、パスポートと書類に入国審査官が四角いスタンプを押した。ガイドブックには、国境で滞在予定日数分の強制両替があると書かれていたが、税関検査だけで、両替はなかった。現地通貨がないとプラハに着いてから困る。恐らく駅に銀行か両替所があるので、そこに行けば何とかなると思った。
その後、僕たちはバスに乗せられた。ドイツ人の姉が僕に耳打ちした。
「この付近に軍事基地があるの。だから、西側の人間はバスで移動させられることになるの」
「プラハまでバスで行くことになるの」
「そうじゃない。2時間もしたところで、もう一度列車に乗せられるわ」
軍事基地という言葉を聞いて、僕は緊張した。
『十五の夏』文庫化
高校一年の夏、僕はたった一人で、ソ連・東欧の旅に出た―—。
1975年の夏休み。少年・佐藤優は、今はなき“東側”で様々な人と出会い、語らい、食べて飲んで考えた。「知の巨人」の原点となる40日間の全記録。15歳のまっすぐな冒険。