『ゾンビ学』(人文書院)の著者で近畿大学にてゾンビコンテンツについて教えている岡本健さんと、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)の著者で文芸評論家の藤田直哉さんによる、今だからこそ語りたいコロナとゾンビにまつわるトークイベントをオンラインにて開催しました。その対談を4回にわたってお届けします。
前回の記事はこちら→「ゾンビとメディアの不思議な関係」
最終回では、パンデミックによる排他性をゾンビ映画から考えていきます。
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ゾンビと管理社会
岡本:さらに、今すごく議論になっているのは監視社会についてですよね。コロナの感染状況を把握するためにGPSのデータを使うという事態になりました。渋谷の交差点で何パーセント人が減ったという数字が普通に出てくる。監視社会の議論は割と前からされていますが、今それが現実のものになって、緊急事態だからといって、スルッと認められてしまった感じもあります。
これはゾンビ映画でもよく描かれる話です。ゾンビの世界になった時、新たな秩序を構築しようとする人は出てくるわけです。私が藤田さんの本を読んでいて面白かったのは「生・権力」という話です。人間の生態データみたいなものを権力が握るとどうなるかという話です。
藤田:AIを使って人間を管理したり、政策決定したり、人々が自分のライフログをアップしてそれをAIに判断させて人生を決めてもいいんじゃないかという話も出てきていますよね。色々なビックデータを使いやすくしようということを第四次産業革命と言います。僕はやっていいと思っている立場です。というのも、2000年代にこの議論はさんざんやっていて、どれだけ批判をしても、それを動かす現実が変わらないのでつまらないなと思っていました。20年も前の議論なので、もうやってもいいのではという気持ちもあるのですが……。
「生・権力」つまりバイオポリティクスというのは、政府や権力が人間をどう生かすか、生かしてどう管理して秩序を作るか、そしてどう働かせるかという話です。昔は人間というものは、「悪いことをしたら殺す」というものでしたが、なるべく生かして豊かにして、生産してもらったり、兵士になって戦ってもらったりしたいと変わりました。だから福祉を豊かにするとか、教育をするという風に20世紀の前ぐらいから変わっていきました。これが、「生・権力」というものが発達した理由です。それが、科学技術が発達して、テクノロジーが進んでいくと、もうすこし巧妙になります。この議論が2000年代に盛んにおこなわれました。
岡本:環境管理型権力というキーワードも議論されましたね。
藤田:自律的に思考して、理性的に判断して熟議を行うという民主主義や市民社会の理想的な市民というのがこれまで前提となっていたのですが、それがいないということがわかってしまったら、そうではない社会の設計が必要になります。つまり、人間がゾンビであることを前提として、どうコントロールして、どう管理して、どう秩序をつくるかという問題が浮上してきます。
そうなると、身体にGPS埋め込むとか、電極を埋め込むとか、脳にセンサーを埋め込むとか、色々なテクニックが現実にでてきて、そういったことも考えだすわけです。
みんなゾンビになってもいい?
藤田:そのうちのソフトなものの一つとして、ビッグデータで管理して、GPSでコントロールして、ある思想をもった人間には何かを表示させて誘導するとか、こういう危険があると表示するとか、そういう技術が色々発達していくと、よりソフトに管理できるようになるのではないかという流れで、コロナウイルスをきっかけにそれが実装されかけています。
現代のゾンビもののなかでも「ゾンビ―ノ」(2006年)や、伊藤計劃と円城塔の描いた『屍者の帝国』は、科学技術で管理してコントロールしたり、脳科学の、脳にどんな刺激を与えたらどうなるかということをうまく使ってゾンビを管理するフィクションです。書き手たちがそういったフィクションを書くことで考えていたのは、要するに管理についてなんですよ。強制的に自己や自他を制御するのではない形での人間を管理する社会がありかなしかを散々考えてきて、メタファーで試されてきたことなんです。これは、僕は今も悩んでいますが、みんなゾンビでもいいんじゃないか、しょうがないんじゃないか、もう人間にはなれないんじゃないか、なんて思っています。
要するに、管理する人たちが善意的で、いい存在ならばいいわけで、そうなるにはどうなったらいいのかを考えるべきなのではと僕は思うのですが、岡本さんはいかがですか?
岡本:全体的に人々が個別に考えない状態にしてしまって均衡状態を保つという発想は、「エヴァンゲリオン」の人類補完計画に割と近いような感じもします。「NARUTO」も最後の方はそういった感じになっていきますよね。「無限月読」という術を使って、みんなが夢の中で暮らしたら平和だと言って、そういう世界をつくろうとします。「マトリックス」(1999年)はそういう世界からどうやって脱却するのかという話ですね。世の中で起こることを見ていると、悲観的になってしまう部分もあるのですが、どこの部分で「人間らしさ」みたいなものを残していくのか、ということが大切だと感じています。
「鬼滅の刃」がすごくヒットしている一つの要因としては、主人公に優しさが一貫して残ってることが挙げられると思います。これが人気だということは、ある種、それが失われているのかもしれません。そこの岐路に今立っているんじゃないかという気がしています。諦めてしまう方にいくのか、そこで発揮できる人間らしさとは何なのか。
人間性というキーワード
岡本:ゾンビ映画で「ゾンビ・サファリパーク」(2015年)というのがあるんですが、タイトルからしてもうすでにB級、C級、もしかしたらZ級が確定する感じの作品ですよね。
ゾンビが飼われている孤島があって、そこでゾンビを撃ち殺すことができる。そういうリゾート地なんです。そこでテクノロジーが破綻して、ゾンビたちが逃走して襲われるという、どこかで聞いたことがあるような話です。完全にジュラシックパークのパクリですよね。
そう思って見ていたら、実はこの「ゾンビ・サファリパーク」は結構名作でした。パンデミック後の話を描いています。ゾンビウイルスは一応コントロールされた後で、基本的にはゾンビはいなくなった世界なのですが、そのリゾートにだけは今もゾンビがいるんです。完全に管理されたゾンビたちとして、存在します。
僕は、観ていて途中から不思議に思ったんですよね。こんなにゾンビを殺しまくっているのに、なんでいなくならないのかと。そこはC級Z級なんで、触れないのかなとか思っていたら、最後はちゃんとその理由が明らかにされていくんです。ゾンビが蔓延しつくした世界では、住んでいた国から逃げてきた移民の人たちが大量にあふれていて、その移民の人たちを実はゾンビにしてそこで働かせていた、というストーリーだったんですよ。
こういう映画が出てくるのかと思って、本当にびっくりしました。誰かの犠牲で何かが成り立っていて、でもそれは巧妙に隠されていて……。こういうものがゾンビ映画の中に登場してくるというのにはびっくりしました。もちろんそれは現実にある構造で、思想や学術の世界では割とずっと言われてきたような事なんですけれども、本当に目の前に今の管理社会が現れたことによって、今後フィクションや想像力というものはどう変わっていくんだろうか、というのはこれからもしっかり研究していかねばと思います。
藤田:人間性をどう残すのかということが、若い人にフィットするフィクションの中では問題になっているのは確かにそうだと思います。「鬼滅の刃」もそうですし、「進撃の巨人」もそうですよね。「進撃の巨人」も壁に埋め込まれて、襲われて……という大きいゾンビものです。人間ではなくなってしまった主人公たちが、どんな人間性を残すのか。
「鬼滅の刃」もそうですし、「亜人」もそうですが、機械的に、詰め将棋の天才のように、無慈悲に強くなることもできるけれども、人間性は残さなければいけない。つまり、近代的な人間らしさとは違うものになってきていると、若い人たちは実感としてあるんだと思います。人間性は残さなければならない、あるいはどうなればいいのかということが、フィクションの中で無意識的に問われて、考えられているんだろうと僕は思います。そういうことが考えられているし、どうも選び取られようとしている状況だから、ゾンビものや、亜人のようなものが流行っているんだろうなと思うんですよね。
岡本:人間性というものを考える時に、その人間性が剥奪されたものが出てくるフィクションが役に立つわけです。
藤田:貴志祐介の、サイコパスな教師が人を殺す『悪の教典』とかですね。
岡本:2000年代はバトルロワイヤルなフィクションはたくさんありました。宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』という本の中で、ゼロ年代というのはバトルロワイヤルで、サバイブ感の充満した時代だという話がされていました。たしかに自分の能力をつかってどんどん決断していって、友達も犠牲にして目標を達成しようとする主人公が出てくる作品が目立ちました。「コードギアス」もそうでしたし、「デスノート」もそうです。ですが、そうやって勝ち上がっていった主人公は幸せになれない。勝てたけれど結局自分は幸せになれなかったという最後が多い。最近の作品では、そうじゃない方向性が提示される傾向がある気がしています。
ゾンビと差別
藤田:あともう一つ、何も考えないゾンビになるか、人間になるかという問いも多いですよね。『ハーモニー』は、人間の脳をAIで管理して、意識もなくなって、でも社会は問題なく運営されて、全員がハッピーになる作品です。これをユートピアとみるかディストピアとみるかは分かれるところです。これに対して、反逆せよ、人間になれ! というのがゲームの「ペルソナ5」です。これらの流れが今のフィクションへの問いのようになっています。現実にも影響していそうだと僕は感じます。
岡本:ゾンビものでも「ディストピア」(2016年)という作品があって、その中にハングリーズというゾンビが出てきます。これはタイワンアリタケという本当にあるキノコの類が、アリを操作する菌類なのですが、それが人間に寄生したらどうなるのか、というフィクションです。
ネタバレになってしまうのですが、この作品には「あいだの人間」が出てきます。つまり、人間とハングリーズのハーフのような存在です。ハングリーズには襲われないのですが、人間に味方をしてくれる子供が出てきます。ところが、最後の最後には、その子供は人間に味方をしてくれなくなってしまい、むしろハングリーズ側についてしまって、いわば「みんなハングリーズになってしまおうよ」という結論で終わってしまいます。ゾンビが完全勝利して終わるという、そういう作品が出てきています。
コロナ前後に放映された、2017年のアイルランドの映画の「CURED」という作品を観ました。ゾンビウイルスが蔓延して、たくさんの人がゾンビになってしまっているのですが、その中で回復した人が出てきます。治療法が見つかって、治った人が出てくるのです。その人が「CURED」と呼ばれていて、そこでも治った人と治らなかった人が存在するんです。
ゾンビのままの人と、「CURED」という治った人と、人間がいるという、3つの人が存在する世界のお話です。そうすると、「CURED」は両方の存在に挟まれる格好になってしまいます。人間からすると、「あいつら一回ゾンビになってるやん」という理由で排斥されたりしてしまう。
しかもこの設定の恐ろしいところは、「CURED」たちにはゾンビ状態だった時の記憶が残っているところです。例えば、自分が人間を食べたとか、大事な人を襲ったことを自分が記憶してる状態で人間に戻ってしまうのです。
あんまり明るいところのない映画でしたけれど、そういう事を皆考え始めているんでしょうね。世の中は非常に複雑になっていって、バトルロワイヤルな部分もあり、人を犠牲にしながらじゃないと生きていけない部分もあり、かつ排斥するという方法で本当にいいのか、いややっぱり限界があるだろう、という話を色々とシミュレートしているというのが、今の全体的なフィクションの現状なのかなという気がしました。
藤田:ロメロがすごい影響を受けた作品で、「地球最後の男」という作品があります。「アイ・アム・レジェンド」(2007年)という映画になっています。
岡本:3回リメイクされていて、最新のものではウィルスミスが出ていますよね。
藤田:世界中がヴァンパイアになるウイルスが蔓延して、自分が人類最後の男で、吸血鬼を夜な夜な殺している一方で、吸血鬼側はウイルスがすでに治って、新しい新人類のようなものになっている者がいて、普通に生活をしているわけです。生活している新人類たちに、夜な夜な殺人鬼が襲ってきているという伝説ができてしまって、「俺が殺人鬼じゃないか!」と逆転するという話です。人間の方がモンスターになってしまっているというオチです。
そういった自己と他者の逆転劇が何かを気付かせるという、そういう作劇が、ゾンビものには最初からあったのではないでしょうか。それがこういうパンデミックの時にも思い出していいことだと思います。緊急事態で起こりやすい差別や偏見、他者化、それらの問題への反省のようなものも仕込んであるんじゃないかなと僕は思います。
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