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猫だましい

2020.11.04 公開 ポスト

プラマイゼロ

それ、だっちょ……脱腸、ヘルニアですよ。ハルノ宵子

自身の一筋縄ではいかない闘病と、様々な生命の輝きと終わりを、等価にユーモラスに潔く綴る、ハルノ宵子さんのエッセイ『猫だましい』より、試し読みをお届けします。

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プラマイゼロ

退院後、少しずつ酒量を回復せねばと、毎日着実に増やしていった。2、3日目でビール 250mℓ缶1本、飲みやすい缶チューハイも織りまぜつつ、数日でビール500mℓ、缶チュ ーハイ2本程度にまで戻した。まるでアスリートのようだ(違うだろ!)。

ジャンクフードにも挑戦した。ガンちゃんに、「フレッシュネス」のハンバーガーや「王 将」の餃子を買ってきてもらい、ハンバーガー半分、餃子2個を食べるところから始めた。 退院後初めての“外食”は、ファミレスだった。実は私はファミレスをよく利用する。何 たって早飲みができる。私は買い物ついでの4時頃に1杯やって、6時前には帰り、夜は家 での時間を過ごしたい。しかし徒歩やタクシーワンメーターで行ける範囲に、4時から飲め る“ただれた店”はこの界隈では少ない。ファミレスは座席をゆったりと使えるし、気楽に 本や雑誌を読みながら片手で飲み食いしていても、誰も気にしない。しかしファミレスで、私が食べられる物は限られる。野菜はほとんどが冷凍だし、すべて化学調味料満載で、外国産のバッサバサの鶏肉やら、どっから仕入れたんだ~? って位しょぼいホタテ貝柱やカニ肉なんかが使われている。だがハズレが無いのが、オニオングラタンスープなのだ。ヘタなレストランの物より、はるかに味が濃厚でイケる。オニオングラタンスープは、料理の中でも最上級に、時間と手間がかかる。おそらく工場で機械を使って、時間をかけて大量生産しているからこそできるのだろう。化学調味料を使っているにしろ、これだけ濃厚だと、うまくごまかせる。

とにかく玉ねぎいっぱいだし、ちょっとでもパンとチーズが載っているので、食欲が無い時でもバランスが取れる。そして、なぜかソフトクリームが載ったコーヒーゼリーが食べたくなった。私は甘い物には、あまり食指が動かないが、ソフトクリームとコーヒーゼリーは、たまに食べたくなる。なので、生ビール中ジョッキとオニオングラタンスープ、とソフトクリーム載せコーヒーゼリーが、初の外食メニューとなった。店員さんは、「は? 全部一緒にお持ちしていいん ですか?」と、とまどっていたが、「はい、できしだいどれからでも一緒でいいですよ」と 答えた。めちゃめちゃヘンなおばさんだ。

しかしまだまだ目が回る。退院後2週間位して、ごく少人数の気心の知れたお客さんが来るので、スーパーに買い出しに行ったのだが倒れそうになる。商品を吟味する気力も目も鈍っている。裏側の成分表示をチェックする余裕も無く、これまでの経験則だけで、適当にカゴに放り込む。人をよけたり、レジに立って並んでいることがツライ。しかしここでしゃがみ込んだら“事故”だ。もちろん店員さんは休ませてくれるだろうが、恥ずかしくて今後来づらくなると、必死で耐えた。きっと障害を持った人やお年寄りも、日々こんな気持ちを抱えながら生活しているのだろう。月並みだが、初めて弱い人の気持ちを本当に体感できたのは、ためになった。

退院後1ヶ月足らずの頃に、父の全集を出している出版社のトークイベントが予定されていた。入院前の打ち合わせの時には、「だいじょぶだいじょぶ! 1ヶ月もあれば」な~ん て、お気楽だったが甘かった。

しかし、この出版社の(相変わらずの)破壊的段取りの悪さや進行のポンコツっぷりにア然とし、何とかせねばとアドレナリン全開で乗り切ったが、その後2、3日はグッタリだった。

トークのお相手は糸井重里さんだったが、しゃべり上手の彼が仕切ってくれたので助かった。今思い出すと、ちょうど酔っぱらってしゃべっている時の記憶のようだ。私は酔っぱらっている時でも、そこそこマトモな会話ができるのだが、すぐに下ネタが出てくる。だいじょぶだろうか。まさか下ネタ飛ばしてやしないだろうな? と不安だったが、後に「週刊読書人」に掲載された対談内容を読むと、けっこうマトモだったのでホッとした。

8月には、毎夏恒例の西伊豆の海にも行けた。昔は父と2人、岬を越えた隣の集落から、何kmでも泳げたのに、人工股関節も入っているし、沖の浮きイカダまでの数十 を泳ぐのがやっとだ。

整形外科医によると、人工股関節で泳ぐヤツはいない(らしい)。私の股関節の術式では、 ガニ股にしたり後ろにそらすのがマズイそうだ。脱臼を起こす危険があるとのことだ。つま り座禅の脚の組み方や、タイ式マッサージとかがアウトだ。ヨガなんて、もってのほかだろ う。「浅田真央ちゃんみたいに、脚を後ろに上げて頭の上で持つとか、イナバウアーなんか ダメですよ(って誰ができるか! )」(こいつフィギュアマニアだな)。「平泳ぎもしないで ね」とは言われていたが、長年のクセで、ついつい平泳ぎになってしまう。なるべく脚を開 かないよう意識し、横向きの“のし”や背泳ぎで、ダラダラ泳ぐしかない。

その頃から、ヘソの下のぷくっとしたふくらみが気になっていた。実は腹腔鏡手術といえども、ヘソ下数 位は切開する。正に腹腔鏡を入れる穴だし、ガンちゃんと「切ったモツはどこから出すんだろ? 切り刻んで小さな穴から引きずり出すのかな」なんて話していたが、ここから出した訳だ。きっと縫い方がヘタクソで、脂肪の寄りでもできたんだろう。位に思 っていた。なぜなら手術の際、腸の吻合などは主治医(あるいは縫うのが得意な医師)がや るが、外側の筋膜や皮膚なんかは、もっと若手くんに任せる場合が多いからだ。

しかしそのふくらみは、段々と大きくなり、秋頃にはポコッとお腹に巨大な梨をつけている位になった。別に痛くもかゆくもないし、仰向けに寝れば平坦になる。秋の定期検診で、ニヤリな主治医にそれを見せると、「あ! それだっちょ……脱腸、ヘルニアですよ」と言う。どこか嬉しそうだ。

正確には「術後腹壁瘢痕ヘルニア」という。つまり縫ったところの筋膜が破けて、腸がは み出てきちゃった訳だ。どうやら腹筋の弱いお年寄りや、低栄養の人によく起きるようだ  (私はどちらにも当てはまる)。下腹部にできる鼠径ヘルニアは、飛び出た腸がくびれて「嵌 頓」という状態になり、腸が壊死する危険性があるので、手術が必要となる場合があるが、 腹壁ヘルニアは、機能的にまったく問題は起きないと主治医は言う。

しかし皮膚と脂肪のすぐ下に、生の腸があると思うとブキミだ。主治医は「まぁ、美容的な問題だけですので、ご希望があれば、いつでも手術しますよ」と言う。縫い直すかネットを入れて補強するかで、入院は3泊4日程度だそうだが、この入院嫌いが見てくれだけの問題で、わざわざ入院するか? どうせいつもユルユルの服ばっかり着てるし、もしもシュッとした格好をしなければならない機会があったら(無いと思うが)、きついコルセットでも はきゃいいやと、当面放っておくことにした。

しかし、どうにもみっともないのだ。特に温泉。私は乳がんで片乳になった時でも、すぐに近所の温泉に行った。乳がんの人でも手術の胸を隠せる下着があり、それを着けたままで湯船に入ることができるということだが、私には隠したいというメンタルは皆無だ。最初から堂々と、タオルで隠しもせずにお風呂に入った。だって起きたことは事実で、自分の現状なんだし、帝王切開のおばさんたちだって、皆普通に入ってるじゃないの。なんで片乳を恥

すかしく思うのだろうか。

夕方よくその温泉で、5歳位の女の子を連れ2人で入ってくる、 代位のお母さんを見かけた。スッとした佇まいと場所柄からして、おそらくホステスさんと思われた。きっと母子家庭で、これから娘さんを夜間保育所に預けて仕事に出る。その前のひと時を2人でここで過ごしているのだろう。

お母さんは私の胸をチラ見すると、さりげなく自分のおっぱいを触診している。「いいぞ いいぞ! 娘さんのためにも、今は病気になれないよね」。私の失われた片乳も、少しは役 に立てたということだ。

だがこのヘルニアは、なんか恥ずかしいのだ。湯船に入る直前までタオルで隠したり、つい前かがみの姿勢になってしまう。気が付けばここ数年で、私は裸を見せるには、かなり “イタイ”おばさんになっている。片乳無く、大腿骨の傷跡、お腹の傷ポッコリ、もしかし てセルフイメージのキャパを超えてしまったのか? イヤ、たぶんヘルニア……“だっちょ ー”がダメなのだ。

私の年代以上の人は、クラスに1人位は、鼠径ヘルニアの子がいたと思う。それは昔、栄養状態が悪くて腹筋が弱かったからだろう。クラスの悪ガキどもは、ヘルニアが何かすら分からぬまま、「あいつキン○マ腫れてんだぜ!」「やーい! だーっちょ、だっちょ!」など とはやし立てていた。私もそれを止めることもなく、一緒に笑っていた。「だっちょー」。イ ヤな響きだ。これはきっとあの時の“カルマ”というものであろう。

ガンちゃんに「片乳無いのは平気なんだけど、このポッコリ腹見られるのはイヤなんだよね~」と訴えると、ガンちゃんから「いいじゃん、プラマイゼロで」とのお言葉を賜った。

そうよね、何事も失ったものと同じだけ、得る(出る)ものがある訳だよね。

関連書籍

ハルノ宵子『猫だましい』

歩けない猫は猫じゃない。 自身の様々な闘病、老いた両親の介護と看取り、数多の猫たちとの出会いと別れを、透徹に潔く綴る、「生命」についてのエッセイ。 60を迎える頃、ステージIVの大腸がんを告知された時の第一声は「ああ〜! またやっちまった〜! 」。その1年少し前に、自転車の酔っ払い運転でコケて大腿骨を骨折、人工股関節置換手術で、1ヶ月近く病院のお世話になったばかりだし、5年前には乳がんで、片乳を全摘出している……。吉本隆明の長女であり、漫画家・エッセイスト・愛猫家である著者が、自身の闘病、両親の介護と看取り、数多の猫たちとの出会いと看病・別れを等価に自由に綴る、孤高で野蛮な、揺るぎないエッセイ。

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