天才的頭脳をもつ彼らの日常は、凡人と以下に違うのか?
知的で、深くて、愉快で、面白い!と話題になった『世にも美しき数学者たちの日常』の文庫化を記念して、本文を公開!
第二回目は、『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』がベストセラーになった、加藤文元先生。
* * *
数学について勉強することは、人間について勉強すること
加藤文元先生(東京工業大学教授)
黒川先生が「数学は鉛筆と紙だけあればできる」と言っていたが、ひそかに僕には共感するものがあった。
「小説家とちょっと似てると思うんですよ。元手がいらないところが」従業員を雇う必要もなければ、設備もいらない商売だ。袖山さんも頷いた。
「確かに。頭の中で作り上げるものですからね」
いわばどちらもお金がかからないというところに親近感を持っていたのだ。しかしそんな思い込みは、いきなり覆されることになる。
数学者は旅に出る
「数学はお金がかかる学問です」
ピアノが趣味だという加藤文元先生は、端整なマスクでさらりとそう言った。
ここは東京工業大学、加藤先生の研究室。綺麗に整理整頓された室内は黒川先生の部屋とは正反対の印象である。
「え? 何に、お金がかかるんでしょうか……」
僕はおそるおそる聞いた。部屋の中を見回してみても本棚に専門書が並んでいるくらいで、特に高価な機械などはないようだが。
「もちろん工学系のように実験器具を買うということはありませんが、お金がかからないわけでもない。実は、旅費にかかるんです。どこかに行くでもよし、来てもらうでもよし、いろんな人に頻繁に会うということが数学ではとても大事なんです」
実際、加藤先生は東工大数学系の教授として忙しい日々を過ごす傍ら、イタリア、エジプト、フランス……あちこちに出張しているようだ。
「それは、どうしてですか。一人でやる仕事ではないんですか?」
「最終的に定理を証明するとか、問題を解くといった段階では一人になります。でもたとえば解析系の問題を解こうとする時に、解析の中だけで仕事をしていてもやっぱり限界があるんですよね」
「全く別の視点が必要ということでしょうか。しかし、全く違う分野の研究者が集まって、議論ができるものですか?」
「ゼロからディスカッションをしていくんです。たとえば『俺のところで今、こういう問題があるんだよ』と。すると他分野から『そんなの簡単じゃないか。こうするだけだ』と言う人がいる。『いや、そう単純にはいかないんだ。こういう問題があってね』『じゃあこうしたら?』というように、だんだん話が進んでいく。その中で、思いもよらぬ新しい発想が生まれてくる。ある分野の問題に対して、全然違う分野からのアプローチで道が開けたという話は、しょっちゅう聞きます」
「なるほど、そうしてヒントを手に入れるわけですね」
加藤先生は頷き、続けた。
「そうして話しているうちにいい感じになったら、共同研究をしたりもしますね」
「数学で共同研究というのは、どういうことをするんでしょう。俺はこっちを証明するからお前はそっちをやれ、というような形ですか?」
互いに背中を預け合って敵と戦うような場面を想像した僕だが、どうやら少し違うらしい。
「うーん、それはだいぶ煮詰まってからです。そこまで行く前に、ひたすら議論をします。
大きな黒板やホワイトボードの前で、互いに数式を書いてみせたり消したりしながら……」
僕は脇をちらりと見た。研究室の壁幅いっぱいに、巨大なホワイトボードがかけられている。まさにここで、作業が行われているのかもしれない。
「他にも気分転換に二人で散歩したりとか、美術館に行ったり、動物園、公園、あるいはビールを飲みに行ったり……」
「え、動物園ですか? 研究室に缶詰というわけではないんですね」
「そうですね。人によってスタイルはいろいろだと思います」
思っていたよりもリラックスした雰囲気で研究は進むものらしい。
「数学で一番重要なことは、問題と一緒に生活することなんです」
ふいに加藤先生が言った。
「二十四時間、ずっと問題について考え続ける場合もあるし、頭の片隅に置いておいて、信号待ちの時なんかにふっと思い出して、考え直してみたりもする。とにかくそばに置いて一緒に生活することです」
リラックスどころではない。生活の一部のようだ。
「共同研究も、その人と共同生活をすることなんですね、問題と一緒に。食事に行く時も、旅行中も、遊びに行っても、その問題について話ができる状態にする」
頭の中で問題と一緒に生活している者同士が、さらに一緒に生活をするわけか。
「数学では『共鳴箱』という表現をすることがありまして。いい共鳴箱を持つことは重要なんですね」
「共鳴箱、ですか」
共鳴箱自体は音を出さない。しかしオルゴール単体では聞こえづらい演奏の音色(ねいろ)を大きく、鮮やかにすることができる。
「聞き手に向かって話すことで、自分のアイデアが育っていくことがあります。二人の共同研究でも、片方がどんどんアイデアを出して、片方はひたすら共鳴するというスタイルもあるでしょう」
「じゃあ、中には共鳴箱としての才能がすごく優れているタイプの数学者もいるんでしょうか?」
「そうですね。私自身も、たくさん共鳴箱をやっていると思います」
加藤先生はにっこりと笑う。
「作家の雑談相手になって、アイデアを引き出すのが僕の仕事」と言った編集者さんがいた。
「作家の壁打ちの壁でありたいので、いつでもなんでもぶつけてくださいね」と言った編集者さんもいた。何か難問に取り組む時、人は誰かと話すことで自分の限界を越えられるのかもしれない。
共鳴箱システムは、数学に限らずいろんな分野で使われている気がした。
「そんなわけで、数学にはお金がかかり、その大半が旅費ということになるんですよ」
あちこちに出かけていき、様々な人とおしゃべりし、ビールを飲み、動物園に行く。週末はバーベキューなんかもしているかもしれない。とても社交的だ。勝手に抱いていた孤独な数学者というイメージとは、だいぶ異なる実態がそこにはあった。
中には一人きりで自分の数学を作り出せる人もいるが、それはごく限られた大天才だけだそうだ。
「では、仮に世の数学者がみんな集まる場所を作って、そこで毎日ディスカッションできる環境を整えたとしたら、数学の研究としては理想的なのでしょうか?」
「うーん、どうですかね」
加藤先生はしばらく答えを言いよどんだ。
「国際会議というものが四年に一回ありまして、それが恒常的にあれば、今よりはいいと思いますけど……」
「必ずしも理想というわけではないんでしょうか」
「そうですね。やっぱり学派ができてしまうんですよ。一つアイデアが生まれると、その中核だった人の周りで学派ができるんですが、そのアイデアを次のステップに昇華するのは、また別の学派なんです。ある程度遠くからその状況を見られる人でないと、アイデアを客観的に捉えたり、違った側面を追究したりしていくことができない。具体的な例はたくさんありまして、たとえばグロタンディックという数学者がいます」
おとといが彼の誕生日だったんですけど、と加藤先生は何気なく付け加える。
「新しい数学の空間概念を作り、いろんな意味で数学を変えた人です。彼のアイデアをたくさんの人がサポートして、大きく広げることに成功したんですね。これはフランスで起きたことです。でも、ポスト・グロタンディックとして本当に新しいことができたのは、アメリカと日本だったんですよ」
「むしろ遠く離れた国だったんですね」
「フランス人でグロタンディックをよく知る人は、その精神に固執してしまったと言われています。アメリカや日本からすると、もちろんグロタンディックは偉大な人だけれど、そうは言っても一番偉いのは数学だということで、新しく大胆に考えていけたんだと思うんですね。だから一点に集中してしまうと、必ずしも良いことばかりではないんです」
交流は必要とはいえ、近ければいいというものでもない。
何だか不思議な気分になる。人類がこの地球に住んでいるから、地球というのがこれだけの大きさの星だから、今日の数学の発展はあるように思えてきた。
「最近はグローバル化、グローバル化と言われてますけれど、やはりある程度のローカリゼーションはあった方がいいんです」
交流は必要。その一方で、ある程度離れていることも必要。となるとつまり。
「はい、旅費が必要なんです」
数学はお金のかかる学問なのである。
物理に行って、生物に行って、そして数学へ
加藤先生は大学に入った当時、数学の専門家になろうとは考えてもみなかったという。
「むしろ数学科に行くと性格が悪くなるような気がして、避けてました。一種の偏見ですね。
最初は物理をやろうと思っていたんです」
「そうなんですか。で、物理から数学へ……」
「あ、いえ。途中から生物の方が面白そうだ、あるいはお金になりそうだと思いまして、生物を始めました」
「物理から生物に」
おかしいぞ。数学に向かう気配がない。
「でも、あまり向いてなかったんですね。解剖や実験が嫌で……じきに、放り投げちゃった。
そうなると単位は取れないし、にっちもさっちもいかなくなって、実家に帰ってしまいました」
「えっ!?」
「休学して仙台の実家に帰ったんです。少し頭を冷やそうと思って。でもその間、暇で、本当に暇で……そこで、この本を読み始めたんですよ」
本棚から取り出して見せてくれたのは、『おもしろい数学教室』という本だった。表紙を見る限りはどちらかと言えば子供向けの、数学の入門書のように見える。紙は黄ばみ、かなり年季が入っていた。
「中学生くらいの時に、じいさんが買ってくれた本なんです」
「ふと、数学に興味を持って読み始めたんでしょうか?」
「いえ、違います。ものすごく暇だったんです」
「ものすごく暇」
「本当に暇で、他に見るものがないというくらい暇だったんです」
まさかこんなものを読むことになるとは、という感覚だったようだ。
「そうしたら、ちょっと不思議な数について書いてあるんですよ。『二乗しても変わらない無限に続く数』というものです。何だこれはということで、ちょっと計算してみたんですよ。
そして、どうやら自分が見たこともない数の世界があると気が付いた」
説明を聞いていて、その世界の面白さに僕も衝撃を受けた。
ぜひともここに書きたいのだが、少しだけ数式を読む必要がある。というわけで、数式を読んでもいいという方は章末のコラム( 61ページ)を見ていただけないだろうか。少々実態とは異なっていても雰囲気だけ摑めればいいという方は、左記のたとえ話を読んで欲しい。
皆さんは推理小説を読むだろうか。ある部屋で殺人が起きた。現場にはこういった証拠が残されていた。犯人は一体誰なのか、推理して当てよう。そんな筋書きがお馴染みだ。謎解きは、きちんと現実に即した論理的なものが多いと思う。犯人は実は魔法使いで容疑者を呪い殺したとか。実は通りすがりの宇宙人が鍵を閉めて密室にしていったとか。そういうのはルール違反であって、許したらそもそも推理小説が成り立たない……はずだ。
しかし世の中には、とんでもない推理小説がある。
主人公は三回までなら殺されても生き返るとか、登場人物はみんな腕が十本あるだとか、はたまたページを一枚めくるごとに探偵が一つ年を取るだとか、めちゃくちゃな設定を勝手に付け加えているのである。なんじゃこりゃ、と感じながら読み始めることになるが、だからといって推理小説として破綻しているとは限らない。
三回死んでも生き返る小説であれば、三回までは平然としていた人物が、四回目の危機が迫るとあせり始めるとか。回数を間違えて報告していたことが、犯人看破の証拠になるとか。
その設定を活かしたまま、きちんと矛盾なく推理することができ、論理的に犯人が導き出せるように作られているのである。
僕は初めてそういった作品を読んだ時、推理小説は思っていたよりもずっと自由で、いろいろなやり方ができるのだと衝撃を受けたものだ。
加藤先生が見つけた数の世界は、そんな変則的な推理小説に少し似ているかもしれない。
普通に考えたらおかしいと思うようなルール違反をしながらも、その中ではきちんとつじつまが合っているという数学だったのである。
「全然違った数の世界なので、全然違った答えや形になるんですが、驚くべきことにその世界の中ではちゃんと計算できるんです。帳尻が合うんですよ。しかもこの世界の中できちんと定理があって、それが証明できるんです」
加藤先生は興味を持ち、いろいろな応用を試してみたという。高校で習うような二次方程式の解の公式を当てはめてみたり、新たに定理を考案して証明してみたりを続けた。
(続きは、ぜひ本書で)
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世にも美しき数学者たちの日常
「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!
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