天才的頭脳をもつ彼らの日常は、凡人と以下に違うのか?
知的で、深くて、愉快で、面白い!と話題になった『世にも美しき数学者たちの日常』の文庫化を記念して、本文を公開!
第五回目は、世界をステージに、第一線で活躍している渕野昌名誉教授。
* * *
ちょっと、修行みたいなところがあります
渕野昌先生(神戸大学教授)
数学には思いもよらない温かさがあった。
その一方で、人を寄せ付けないような冷たい怖さもあると思うのは、僕だけだろうか。
数学の専門家に会いに行く時、僕は心のどこかで怯えている。手も足も出なかったテストの経験や、授業で当てられて答えられず苦しかった記憶がそうさせるのだろうか。とにかく数学について調べる以上、いつかはそんな恐怖に立ち向かわなくてはならないのだ。
その日は正直、一番恐ろしかった。
神戸大学には時間より早く到着したので、学食でいったん休憩する。担当編集の袖山さんも、『小説幻冬』編集長の有馬さんも、一様に口をつぐんでいた。お茶に手を伸ばす気にもなれない。刻一刻と、インタビューの時間が近づいてくる。変な汗が出てきた。
「二宮さん。お役に立てるよう、僕も集中力を高めて臨みますから」
有馬さんと目が合うと、彼は優しくそう言ってくれた。口は笑っていない。僕はぼんやりとした視界の中で考えた。どうして編集長がわざわざ来てくれたのだろう。万が一のことがあった時の応援要員なのかもしれない。幻冬舎によるフルサポート態勢と言えよう。袖山さんはと言えば、持ってきた菓子折を眺めて首をひねっている。
「お土産などは遠慮いたします、と言われてしまったんですよね。でもお渡ししたいし。
『みんなで一緒に食べましょう』と言えば、スムーズにいくかなあ……」
僕は質問内容などをメモしてあるノートを開き、目を通し始めた。それは全く自信がないテスト直前の悪あがきに似ていた。
というのも、今回お話を伺う先生が恐ろしかったのである。
その方は、WEB上で日記や大学の授業で使うレジュメなど、様々な文章を公開している。僕も事前に目を通したのだが、時々どきりとさせられる表現が現われるのだ。
今度、短期帰国するときに、数学者についてのノンフィクションを書いているある作家からインタヴューを受けることになっている。
これは僕のことである!
出版社の方からあらかじめそのときの質問事項のリストを頂いているのだが、そのリストの項目に挙がっている質問はどれも、直球の答えでは答えにくいものばかりで「一言で述べよ」と命令されたら言葉につまってしまいそうに思える。インタヴューのときにその状態になってしまうのが恐いので、これから書くpostsのいくつかで、なぜ直球の答ができないのか、ということの説明を試みたいと思っている。ただし、この作家の目指しているのは、「売れる本」のようなので、以下に述べる解説はそのままでは、このインタヴューの答にはならないだろう。
「一言で述べよ」式の解答しか受けつけられない大多数の人たちに何か本質的なことを説明できるのか、ということについて、僕は否定的な経験を積みすぎてしまっているような気がする。だから、「ベストセラー」というようなカテゴリーの文章を書いている作家というのは、とても恐しいような気がするし、この恐しさが僕の究極の攻撃性を引きだしてしまいそうなことに対する恐しさもある。しかし、その反面、この「ベストセラー作家」という現象には、ひどく好奇心をそそられもする、……というのがこのインタヴューを受けることを承諾してしまったことの背景である。
先制攻撃のジャブをもらったような感覚だ。このまま敗北を認めて倒れていたい気分だが、試合、というか取材はまさにこれから。緊張感が高まっていく。
さらにメールでやり取りするうちに「先生」呼びは避け、「さん」呼びでお願いしたいという旨もご連絡いただいた。
この本における取材は毎回温かく、フレンドリーに応じてもらえることが多く、僕は緊張しすぎてかえって空回りしているくらいだった。しかし本来、数学者はそんな生ぬるい存在ではないのではないか。ついに出会ってしまったのかもしれない。どこに地雷があるかわからない、難しい先生に。
「そろそろ向かいましょうか」
有馬さんが厳かに言う。時間が来た。
トイレはすませた。水も飲んだ。名刺は用意してあるし、寝癖も立っていない。あとは当たって砕けるだけだ。僕は覚悟を決め、袖山さんや有馬さんと無言で頷き合い、立ち上がって歩き出す。
ここからは先方の希望に沿うとともに、敬愛の念を込めて相手を「渕野さん」と記載したい。その方が正しいイメージが伝わると思うからだ。
実は、渕野さんはとても優しい人だったのである。
幻想の恐怖
「どうも初めまして。こちらへどうぞ」
廊下で出会った渕野さんは、朗らかに笑いながら僕たちを談話スペースに招いてくれた。
「工学系の先生の研究室だとお茶を出してくれる秘書さんがいたりするんですが、数学はそこまでお金回りが良くなくて。飲み物はお茶でいいですか?」
教授自ら自動販売機でお茶を購入し、紙コップに注いで振る舞ってくれる。ポーランド土産だというチョコレートのお菓子まで出てきた。
「あの、渕野さん、これ。みんなで食べたらいいかと思いまして」
「ああ、これはどうも。わざわざすみません」
袖山さんが渡し方をさんざん検討していた菓子折も、あっさりと受け取ってもらえた。
我々はチョコレートを勧められるままに手に取り、口に入れては「美味しい!」「中にオレンジのゼリーが入っていますね」などと声を上げる。
何かがおかしいぞ。
この場はもっと緊張感に満ちた、一触即発のインタビューになるはずではなかったのか。
待てよ、どうしてそう思っていたんだっけ。ちょっと落ち着いて整理してみよう。そもそも渕野さんの何が怖かったのだろう。
『数とは何かそして何であるべきか』という数学書がある。著者は数学者のリヒャルト・デデキント、訳と解説は渕野さんだ。同書に関して渕野さんの日記にはこうある。
デデキントは、”Was sind und was sollen die Zahlen“の初めのところで、
本書は、健全な理性とよばれるところのものを有する、すべての人が理解可能である。哲学的あるいは数学的な教科書的知識は、本書の理解のためには全く必要とならない。
と書いているが、このことはこの本(ちくま学芸文庫『数とは何かそして何であるべきか』)全体に対しても言えると思う。というよりそう言えるようにがんばって書いたつもりである。だから「むずかしすぎる」(つまり売れなくて出版社をがっかりさせる)かどうかは、そもそも読者がある程度以上の労力を投資して本書を読もうと思うかどうか、ということと、「健全な理性とよばれるところのものを有する」人々の全人口に対する割合にかかっていると言えるだろう。
うん、怖い。この本の内容がわからなかったら人間じゃない、と言われているようだ。次の文章も日記からの抜粋である。
……という問題を出したところ、クラスが全滅だったのだ。しかも、問題に手をつけて解答を試みている学生の答案が実に支離滅裂だった。計算問題では面倒くさい計算を間違えずにこなしているのに、この問題や他の基本的な問題ではinsaneな、マイナス点をつけるしかない、吐き気を催すような「解答」が書かれている、というパターンが続出した。
カーゴカルトの儀式のような数学のまねごとしかできない学生しかいないクラスを教えなくてはいけない、というのは苦痛だ。そのような学生がうようよいるキャンパス、というのはかなり薄気味の悪い場所である、とも言わざるを得ない。
学生当時は「吐き気を催すような『解答』」を書いていただろう僕としては、廊下に立たされてお説教を受けるような気分だ。さらに、別の部分ではこうくる。
教えなくてはいけない学生が、ほっておけば自分でどんどん理解する、という種類の人達ではない場合には、そのことの責任をすべて教える側が負わされることになるため、教育は非常に割の合わない仕事になってしまう。しかも学生の多くは理解するということ自体を全く拒絶していた。拒絶しないまでも、理解する、ということが何かを全く理解していないようだった。しかも、彼等は理学系の学生でもなく、だから多分、犬と鶏にわとりの違いのように、僕の属すのとは違う文化圏の人たちなので、彼等が理解することを拒絶すること自体を非難するわけにもいかなくて、見て見ぬふりをしなくてはならず、小学校のときのような悲しい思いをした。
渕野さんの絶望が伝わってくる。でも、ここまで言われてしまうとこちらも言い返したくなってくる。そりゃあ頭のいい人から見ればそうかもしれないけれど、こっちだってそれなりに頑張って生きてるんです。数学がわからないものはしょうがないでしょ。それを犬と鶏の違いとまで言われちゃ、どうやったって歩み寄れませんよ。
うん、これではインタビューに向かう足がすくむのも無理はない。
だが実際に目の前にすると渕野さんは排他的どころか、とてもフレンドリーな印象だ。この矛盾をどう考えたらいいのだろう。
もしかして……僕が勝手に怖がっているだけなのではないか?
渕野さんを、あるいは数学を。
「数学は思いのほか、誰でもわかる、誰でも恐怖感を持たないで接すればわかる、そういうところがあります。もちろん難しいところはとことん難しいのですが、そうではない部分もたくさんあるんです」
渕野さんはそう言った。
「アンドル・フォルデシュというハンガリーのピアニストが本に書いているんですが、若い頃リストのソナタを勉強するにあたり、『この曲は簡単な曲だ』と思うようにしたんだそうです。そうしたら、難なくマスターできたという逸話(エピソード)がありました。同様にね、数学でも心理的なものはかなり大きいかもしれません」
怖いと思うから怖い。怖い気持ちが勝手に膨らんで、実際の渕野さんと全然違うイメージを抱いてしまっていたのかもしれない。数学に対してもそうだ。自分には絶対理解できない恐ろしい学問だと、思い込んでいるのかもしれない。
(続きはぜひ本書で!)
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世にも美しき数学者たちの日常
「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!
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