権力を握ることは悪ではないが、激しい闘争を勝ち抜き、のしあがった者に“ただのいい人”はいない――。最強にして最悪といわれる3人の独裁者、ヨシフ・スターリン、アドルフ・ヒトラー、毛沢東。彼らの権力掌握術について徹底的に分析した『悪の出世学』(中川右介著)から、ヒトラー部分の一部を抜粋。全3回連続公開。
第二部 栄達
第二章 ヒトラー ――我が闘争
ヒトラーが入党した1919年9月には、ナチス(当時はドイツ労働者党)はせいぜい数十人しか党員がいなかったが、ヒトラーが党首となった1921年の終わりには党員数は6千人と推定されている。急成長しているわけだが、驚くべきはその後で、2年後の23年11月にミュンヘンで蜂起した時には5万5千人の党員がいたとされる。この蜂起の失敗で党員数は2万人程度にまで落ち込むが、1933年1月の政権獲得時には120万人にまで達していた。
その間、ヒトラーは党内抗争と、ドイツ政界全体での政争に勝ち抜いて、首相となる。さらにはヒンデンブルク大統領の死によって、国家のトップ、そして国家を超越した存在にまで上り詰める。
ナチスという組織における出世では、1921年7月に党首となったことで終着点に達したので、以後、ナチス党内におけるヒトラーの言動は一種の「経営術」として捉えることもできるが、国のトップを目指す以上、ヒトラーの出世物語はまだ終わらないので、「出世術」の側面も持ち続ける。ドイツ政界という大きな企業のなかでナチスという部署のトップに立った中間管理職と捉えることもできるのだ。最上位にはヒンデンブルク大統領がいる。
ロシアでは暴力革命によって社会主義政権が樹立された。これに危機感を抱いたドイツの財界や保守・右翼勢力は、不本意ながらも社会主義になるのを防ぐために共和制を呑んだ。こうしてワイマール憲法体制となったが、これは左右両派の妥協の産物だった。当然、双方に不満が残る。
中央政府の政権は、社会民主党を中心とした連立内閣となるが、その左に共産党、右に極右政党がいくつもあった。そして共産党も極右も議会選挙にも臨むが、暴力革命路線も完全には捨てなかった。
党内でのヒトラーのライバルとしては、グレゴール・シュトラッサー(1892~1934)という左派の論客がいた。第一次世界大戦では一級鉄十字勲章を受章しており、戦後は薬品店を経営していたが、1920年にナチスに入った。ナチスの政策における社会主義的な側面を強調して労働者階層の党員や支持者を増やすのに貢献した。
ナチスの外でのライバルは共産党である。アメリカに発した大恐慌の影響はドイツにも及び、失業者が増大し、社会は不安定になっていく。その不満の受け皿となるのは、極右と極左となり、潜在的支持層が重なるのだ。
ミュンヘン一揆の失敗
1923年11月、ヒトラーはバイエルン州政府を乗っ取ろうとクーデターを起こし、失敗する。これを「ミュンヘン一揆」という。成功していれば「ミュンヘン革命」とでも呼ばれたかもしれない。
第一部で述べた、ヒトラーがナチスの党首になるまでは、内輪の話である。ドイツ全土ではヒトラーはまだ無名に等しい。ヒトラーとナチスを「悪名」というかたちで有名にしたのが、ミュンヘン一揆だった。
当時のドイツは国民の不満が鬱積 していた。
ヴェルサイユ条約ではドイツはフランスなどに巨額の賠償金を払うことになっていたが、かなり無理な金額で、滞ってしまった。それを理由に1923年1月、フランスとベルギーはドイツのルール地方へ軍を進駐させた。そこはドイツ有数の工業地帯だった。ドイツ政府はフランスへの抗議として、ルール地方の工場や炭鉱の労働者にストライキをするように呼びかけた。ドイツ国民もフランスへの怒りに燃えた。ところが、ストライキをした労働者に賃金を保証するために紙幣をたくさん刷ったため、国中が一気にハイパーインフレに襲われた。ドイツ国民のフランスへ向けられていた怒りの矛先は、今度はドイツの中央政府へ向けられることになる。
とくにもともと反ベルリンの空気が強いミュンヘンでは、中央政府への反発が鬱積していた。こうした情勢を目にして、ヒトラーは武力によってバイエルン州政府を乗っ取り、バイエルン軍としてベルリンへ進軍しようと考えた。その1年前の1922年10月にイタリアでムッソリーニがローマへ進軍して政権を取ったという前例があったので、それに刺激されていたからでもあった。
こうした外の状況に加えて、5万人にまで増えていたナチスの党員たちの間に、このまま黙っているわけにはいかないと、武装蜂起を求める気運が高まっていた。ヒトラーとしては党員から弱腰だと思われることは得策ではない。
ナチスの武力組織として突撃隊(略称SA)が結成されたのは1921年11月だが、その前身として、1919年秋、ヒトラーが入党した直後から、党の集会を護衛する部隊が作られていた。当初は演説者の護衛をするための部隊だったが、1921年10月から武力革命のための武装組織となる。
ドイツはヴェルサイユ条約によって軍備が制限されていたが、民間の国土防衛組織が作られ、軍の代わりになっていた。これらの民間防衛組織は右翼団体の別働隊ともなっていたのだ。突撃隊は、いくつかの防衛組織がまとまったものでもあった。
この突撃隊のリーダーが、エルンスト・レーム(1887~1934)である。現役の陸軍大尉でありながら、ナチスの突撃隊を指揮していたのだ。レームは突撃隊以外のバイエルン州の右翼団体の戦闘部隊もまとめていた。
こういう状況下、11月8日にミュンヘン郊外のビアホールでバイエルン州政府主催の集会が開かれ、そこに主だった閣僚が集まることになったので、ヒトラーはその会場に武装したナチス党員たちとなだれ込んだ。
クーデターは一瞬にして成功した。ヒトラーはビアホールに入るなり、1発の銃弾を天井に向けて放った。なにごとだ、とそこにいる全員が、一瞬、ひるんだその瞬間に、ヒトラーは近くのテーブルに飛び乗り、「国家革命は開始された。臨時政府が樹立された。バイエルン州及びドイツ中央政府は倒れたのだ」と宣言した。
そして得意の演説を始めた。そこに居合わせた人々は、最初は何が起きたか分からなかった。やがてヒトラーに不審を抱いた人々を含め、いつしか全員がその演説に魅入ってしまい、ビアホール内では、ヒトラー政権が樹立された。
だが、そこで終わりだった。バイエルン州政府と軍の全体の支持を得ることはできなかった。軍の大物のはずのルーデンドルフを味方にしていたが、彼の影響力はそれほどではなかったのだ。さらにレームが突撃隊を率いてミュンヘン軍司令官ロッソウ将軍を逮捕しに行ったものの、レーム自身が現役の軍の大尉であったため、将軍の「部隊を解散しろ」との命令に従ったのも、一揆失敗のひとつの原因だった。レームは一揆後、陸軍を解任される。
レームのそんな動きも知らず、革命が成功したと思っていたヒトラーは、翌朝、中央政府打倒を訴えるために、3千人の武装した党員と共に市の中心部へと行進した。その行く手を百人の武装警官に阻まれ、乱闘となってしまう。やがて激しい銃撃戦となると、ヒトラーは近くにあった自動車に乗ってその場から逃げてしまった。革命は失敗し、単なる「一揆」として歴史に残ることになる。
知人の家に匿 われていたヒトラーは、2日後に逮捕された。