森見登美彦さんの『有頂天家族』は、狸が人間の姿となり、人間の美女や天狗たちと、縦横無尽に京都の街を飛び回る、世にも毛深い(!)ファンタジー小説だ。アニメ化もされた、三部構成(予定!)の人気シリーズである。
森見作品に何かと関わっているのが、京都を拠点に活動している劇団「ヨーロッパ企画」代表の上田誠さんで、トリッキーかつチャーミングな活動、作品、存在感で、多方面から注目されている。森見さんとどれくらい縁が深いかは、下のプロフィール欄をご覧いただきたいのだが、2020年に刊行された『四畳半タイムマシンブルース』では、森見登美彦著&上田誠原案、という取り組みまでしているという深~い関係、である。
その上田さんが、2010年に『有頂天家族』が文庫化するにあたって、こんな文庫解説を書いていた――!
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「解説」しようとして、途方に暮れている。
『有頂天家族』面白いなあ、と思っているところに、これがこのたび文庫になるそうで、森見先生から解説のお誘いをいただき、一も二もなくお引き受けしたものの、いざ「解説」する段になって、解説というからには、解きほどいて説明すればいいのだな、であればこの作品の主題はどこだ、先生のもっともやりたいことはどのあたりだ、というようなことを考えて、とっぷりと途方に暮れている。
どうやら、由緒正しい狸の一家が織り成す家族小説らしい。その点で、とてもぐっとくる。ユーモラスだし生きる糧にもなる。だけど森見先生がやりたいのは、どうもそれだけではないらしく、ハートフルなのに猥雑で、センチメンタルかつ常軌を逸した破天荒ぶりで、煌(きら)びやかでしみったれていて、サスペンスフルにして和風ファンタジーだし、底知れぬ悲しみの果てに、フライドチキンを食べて、最後は初詣でオールOKだったりするので、読み終えてただならぬ多幸感に包まれるものの、解説を任された身としては、どうにも身悶えてしまう。
この過剰な小説を、いかにして「解説」するべきか、と。
呆然としつつ、そういえばこんなこと前にもあったな、という気がしてハタと思い至ったのが、『四畳半神話大系』のときの、あの恐るべき体験だった。
2010年春、森見先生の第二作『四畳半神話大系』がテレビアニメとして放送され、その約一年前、僕は「脚本」という大役を仰せつかった。それには、かねてよりの森見先生とのうっすらした親交もあり、また、京都で活動している脚本家、という地の利もあったのだと思うけど、なんにせよそのときも、お話をいただいて一も二もなく引き受け、その後、ほとほと途方に暮れる日々を、約半年ほど過ごしたのだった。
その脚本化に際しては、けっこうな文章量からなる原作を、正味20分×11話、という放送枠のサイズに収めなくてはならず、とはいえ、ストーリーの「核」となる部分さえうまく掴んでおけば、あとは適宜取捨選択させてもらいつつ、どうにかまとめられるのではないか、という気楽な目算で臨んだ僕は、そのまま地獄のエンドレスナイトへと突入することになる。
『四畳半神話大系』は、その名の示すとおり、四畳半に暮らす冴えない大学3回生が主人公の小説であり、文章の大半は、飯を食う、猥褻図書を読む、悪友とじゃれあって過ごす、など、おおよそストーリーの展開には与しない、無意義な描写に費やされる。また、本筋とそれほど関係のない物事について、やけに執拗に語られていたり、あるいは、森見先生の筆が滑ったとしか思えないような、不毛な饒舌ぶりも、今作と同じくそこかしこに出てくる。
となれば、それらを差っぴいて、物語の「核」を見出せばいいのだとばかりに、そうした箇所を順番に落としていくと、物語はなんだかみるみるやせ細っていき、「大学生活をスマートに送る男子学生の話」といった風情の、模範的ではあるものの、原作の豊穣さとはまるで別のことになってゆく。そしてその一方では、割愛した瑣末(さまつ)なエピソードたちが、寄り集まって、なんだか妙なきらめきを湛えている。
これには困った。どうやら僕がすくい上げたそれは「核」ではないらしい。
慌てて元の形に差し戻し、改めてどこが勘所なのかを見定めるべく、原作を読み返しているうちに、なんだかどこもかしこも愛おしくなり、ついにはワンセンテンスすらも落とせなくなる、という恐るべき愛の迷路に踏み込んでしまった。
そうして半年間にわたる彷徨のはてに、同じく愛の迷路に踏み込んでしまったらしい監督から「とにかくじゃあ、詰め込めるだけ詰め込んじゃいましょう」という清清しい方針を得、そこからようやくアニメはしかるべき完成形へと向かい始め、あの「常軌を逸した早口ナレーション」は、そうした経緯で生まれたのだった。
つまりはそれが、森見先生の書く小説の空恐ろしさである。
全編を通じて、面白い物語が満遍なく満ちており、そこには「核」など存在せず、あるひとつの方向に奉仕するように文章が整然と書かれていたりするわけでもなく、いうなれば森見先生の妄想の赴くままに、「物語の枝」が生き生きと縦横無尽に伸びている。
それは、京都の肥沃な土地を栄養にしつつ、あちこちに奔放に成長する樹木や植物のようなものかもしれず、だからこそ、枝葉を剪定するのがとても難しい。というか心苦しい。そもそも、生木を切るのはいけない。
あの半年間の逡巡は、今思えばそういうことだったんじゃないかと思う。脚本がわりかし遅れたのも、自然愛護の観点からすれば、むべなるかなと思える。
そんなことより『有頂天家族』だ。
この作品の場合、植物の「種」はおそらく狸たち、ということになるのだろうけど、これが思いのほか発芽がよかったらしく、枝はあらゆる方向に伸び放題に伸び、その先々のいたるところで、狂い咲きのように物語の花を咲かせている。
たとえば、二章で、矢三郎が母とビリヤード場に行くところ。矢三郎が、ビリヤード台を前にして曰く「ぽんと母が突くと、色とりどりの球がわらわらと動く」のだと。
「ぽん」という擬音もさることながら、心奪われるのは「わらわら」である。
「ばらばら」ではなく「わらわら」なのだから、これはちょっと大変なことだ。
これって多分、ああいうことだと思うのだけど、ビリヤードの球って、一色つるんと同じ色に塗られてる球もあれば、中にいくつか、白い下地に、色が帯状にぐるりと塗られているタイプの球もあって、その「帯状にぐるり」の球が、台の上を転がると、なんとも生物的な、よろめくような動きをするように見え、それらがいっぺんに複数、あちこちへ動き回るさまをみて、矢三郎はつまり、「わらわら」と言っている、んだろう、と。
なんだか野暮な説明をしてしまった上に、もしこれが見当違いであれば、これほど恥ずかしい解説もないわけだけど、ともあれ矢三郎には世界がこんな風に見えていて、矢三郎の万事を面白がる目線を通して、こんな愉快な出来事が、小説中のいたるところで起こっている。森の葉陰で、井戸の底で、コーポ桝形(ますがた)で、橋の上で、鍋の中で、屋根の上で、八坂神社の人混みで。
矢三郎はまたいう。「かつて私は、狸として如何(いか)に生くべきかという難問に取り組んだことがある」と。だけれどもついに結論は出ず、「どうやら面白く生きるほかに何もすべきことはないようだという悟りを得た」のだと。
我々もぜひこれに学びたいと思う。狸のように生きるのはなかなかに難しいけれども、読書くらいは狸のように愉しむのがよかろうと思う。
森見先生の作品は、そのようにして読むのがいい。答えを導き出そうとするのがそもそもの間違いで、解説するのはだからやめにする。
ただ愉しめばいい。面白く読むほかに何もすべきことはない。
――劇作家、演出家、脚本家、構成作家。ヨーロッパ企画代表