人気歴史作家が、戦国史の転機となった十二の野戦に着目、新史実を踏まえて勝因・敗因を徹底分析した『合戦で読む戦国史』の試し読みをお届けします。第4回は、永禄3年(1560)5月に行われた「織田信長と桶狭間の戦い」の後編をお送りします。
* * *
信長の軍略
信長の戦い方は、前半生(美濃制圧まで)と後半生では異なる。稲生の戦い、村木砦の戦い、桶狭間の戦いでは、自軍が兵力的に劣勢であるにもかかわらず、若者たちのモチベーションの高さを頼みとした戦い方で窮地を脱した。その一方、兵力優勢となる後半生の戦い方は、兵力に物を言わせた横綱相撲となる。
ただし本来の強みの突進力を捨てたわけではなく、朝倉義景(あさくらよしかげ)の追撃戦(刀根坂〈とねざか〉の戦い・一乗谷〈いちじょうだに〉の戦い)や大坂本願寺との天王寺合戦では、その強みをいかんなく発揮している。
前半生の信長は、少年時代から行を共にしてきた子飼いの家臣たちを、戦の原動力とせざるを得なかったと思われる。というのも国衆は信長の力量を見極められず、日和見を決め込んでいた形跡があるからだ。
桶狭間の戦いでも、地元の有力国衆の水野信元(みずののぶもと)の名が記録や軍記物に出てこない。また近隣の国衆の簗田政綱(やなだまさつな)が戦後に「功第一」とされ、沓掛城と三千貫文の恩賞を賜ったが、これなどは肚を決めて味方してくれた国衆に報い、それによってほかの国衆にも、「働けば報われる」ことを示そうとしたのではないだろうか。
さらに村木砦の戦いでは、信長は陣頭指揮を執っただけでなく、自ら最前線に出て鉄砲を撃つまでした上、戦後、殊勲を挙げた者たちの名を皆の前で読み上げ、その武勲を称揚している。この時、討ち死にした者の縁者には、相応の恩賞が下されたのだろう。どうすれば配下の者たちの心を摑んで士気を高めていけるかを、信長はよく知っていた。こうしたことから士気と団結力の面で、織田勢が今川勢をはるかに上回っていたことは間違いない。
また信長は情報の重要性を熟知しており、前述の簗田政綱の貢献度を義元の首を取った毛利新介(しんすけ)よりも上位に置いている。これは「重要な情報を持ってきた者は、命を張って戦った者よりも報われる」ことを内外に喧伝(けんでん)するために行ったのだろう。
こうしたことから桶狭間の戦いの時点で、信長は後に天下に覇権を確立する諸要素を備えていたと言えるだろう。
突進力に活路
清須城を出た信長が熱田に着く前の永禄三年(一五六〇)五月十九日の午前八時頃、大高城の付城の鷲津・丸根の両砦が落ちたという一報が届く。正光寺・向山・氷上山の三砦は記録に出てこないが、すでに自落し、その部隊は鷲津・丸根の両砦に合流していたと見るべきだろう。
この一報を受けた信長は、それでも熱田を出陣して丹下砦に入った。しかし、ここで兵を引くことも選択肢の一つだった。というのも、この頃の尾張国南部には、信長自らの手で三重の防衛線が構築されていたからだ。
鷲津・丸根両砦の北方には、島田・笠寺(かさでら)・星崎の三城が第一防衛線を成しており、仮にそこを突破されて熱田を制圧されても、末森(すえもり)・御器所(ごきそ)・古渡(ふるわたり)の三城による第二防衛線がある。さらにそこを突破されても、那古野(なごや)城による第三防衛線があるので、今川方が清須城(信長の本拠)の攻撃を行うまでには、相当の損害を覚悟せねばならない。もしも信長以外の武将なら、今川勢をいなしながら城郭網を使った漸減(ぜんげん)作戦を展開していたに違いない。
それでも信長が「前に出た」理由を考えると、「退きながら戦う」よりも、自軍の強みである突進力を生かした戦い方に勝機を見出していたからだろう。
その後、信長が丹下砦で後続する自軍が到着するのを待っていると、二千ほどの兵が集まり、曲がりなりにも戦う態勢が整った。
桶狭間の戦い
一方、午前十時に沓掛城を発した義元は、正午頃には漆山(うるしやま)に陣を布き、今川勢の先手部隊を中島砦の東、善照寺砦の南東にあたる有松北丘陵の西端部まで進出させた。
同じ頃、松平元康らは大高城を解囲すべく、鷲津・丸根両砦を攻撃している。同時に服部水軍は大高城に兵糧を運び入れ、いったん沖合に退避した。つまり義元率いる今川方主力勢は鳴海城と大高城の間に入り、信長の救援が大高城に及ばないようにしたのだ。これは図にあたり、義元は最初の作戦目標である大高城の解囲と兵糧搬入を成功させる。
不思議なのは、この後、義元が漆山を後にして鳴海道を東に向かい、鎌研で南に折れて標高六十一・九メートルの桶狭間山に向かったことだ。おそらく松平元康らによって大高城が打通できたことで一安心し、態勢を整え直して鳴海城の解囲に向かおうとしたのではないか。ないしはこの一帯の危険性に気づき、ひとまず退却しようとしたのかもしれない。
この一報を受けた信長は、丹下砦から引き返さず昼前に善照寺砦に入った。「兵を引く」という義元の消極性に勝機を見出したのだろう。
一方、信長が善照寺砦まで来たことを知った中島砦の佐々政次(さっさまさつぐ)と千秋季忠(せんしゅうすえただ)ら三百は、善照寺砦にいる信長主力勢の露払いに出陣した。これにより桶狭間の戦いの幕が切って落とされる。『信長公記』では、この佐々・千秋両勢の突撃を「朝合戦」と呼び、後の信長の突撃を「総崩れ」と呼ぶ。
この朝合戦を佐々と千秋の独断的行動と捉える向きもあるが、それはあり得ない。信長は突進力を駆使した戦い方をしようと決意しており、それを邪魔する今川方の先手部隊を蹴散らしておきたかったからだ。
ところが佐々と千秋の部隊は、討ち死に五十名ほどを出して瞬く間に壊滅してしまう(二人も戦死)。おそらく信長は彼らに後続するつもりでいたのだろう。しかし今川方はこの一帯に五千もの兵を注ぎ込んでいたので、三百の兵など物の数ではなかったのだ。
この戦いを、桶狭間山の途次にある高根山(たかねやま)の峠で見ていた義元は、謡(うたい)を三番も謡ったという。すなわち緒戦の圧勝で、今川方に油断と慢心という魔物が蔓延したのだ。
「勝って兜の緒を締めよ」とはよく言ったもので、緒戦の勝利は味方を勢いづかせる代わりに油断と慢心を生む。義元は桶狭間山に着いた後、酒宴を張ったというのだから恐れ入る。
信長の勝負手
一方、信長は緒戦の完敗にもめげず、扇川を渡河して中島砦に入った。まさに背水の陣である。緒戦で完敗を喫したにもかかわらず積極策を取るのはセオリーを無視している。そのため佐々・千秋両勢は、今川方を油断させるための犠牲にされたという説まである。つまり信長が彼らに後続しなかったのは策略だというのだ。
その真偽は別として、佐々・千秋両勢が砕け散った後、中島砦の信長は家臣たちを集め、「これで敵は疲労しているので勝てる」と言ったとされる。本気でそう思っていたのか、味方の士気を高めるために強気な発言をしたのかは定かでない。だが私は前者だと思っている。つまり信長は緒戦に敗れようと、味方の突進力なら事態を打開できると信じていたのだ。
この時、突然西から黒雲が湧き出し、横殴りの風が吹き、大粒の雨が雹(ひよう)になって降ってきた。これを正面から受ける形になった今川勢がたじろぐ。それを見た信長は、その暴風雨が収まるや、「掛かれ、掛かれ」と突進を命じた。
織田勢の鋭鋒は凄まじく、中島砦以南の地にいた今川勢を押しまくった。瞬く間に今川方の先手が瓦解する。逃走路は鳴海道しかない。そのため今川方先手衆は主力勢に合流しようと、鳴海道を東にひた走った。この頃、義元は桶狭間山に登り、酒宴を開いていた。
それでも義元は高根山の峠に殿軍を残してきており、そこで殿軍が粘れば、義元が逃走する時間を作れる。それを知った信長は長坂道を上らず、高根山を迂回し、北から桶狭間山に攻め上った。おそらく、簗田政綱が迂回路を知っていたのだろう。それが戦後に「功第一」とされた理由ではないか。また迂回ルート説は、この時のことを指しているのではないか。
桶狭間山に攻め上った織田方と今川方との間で、最後の戦闘が行われた。だが山から下りれば深い藪と泥湿地なので、義元は下りられない。そうこうしているうちに義元は討ち取られた。これが、この戦いの実像ではないだろうか。
義元が討ち取られた理由については諸説ある。従来は、先手部隊瓦解の一報を受けた義元が桶狭間山を下って低地(田楽ヶ窪?)に下りたのではないかと言われてきた。
だが私は山から下りずに討ち取られたと見ている。城攻めで「寄手が攻め上る」という行動はよくあるが、城にはその行動を妨害するための竪堀、堀切、土塁といった防御施設がある。だが桶狭間山とおぼしき山で、そうした遺構が発見されたという記録はなく、突進力のある織田方が、比高が三十から四十メートルの山を攻め上るのは容易だったはずだ。つまり義元には、山を下りる暇さえなかったのだ。
この戦いは、緒戦の勝利によって義元と今川勢に油断と慢心が生じ、それが軍紀の弛緩につながり、そこを信長に突かれたことで、今川勢は一気に崩壊した。そして桶狭間山に孤立した義元は逃走路を失い、呆気なく討ち取られたのではないだろうか。
桶狭間の戦いの教訓
信長は何でもお見通しで、誤算などなく読み通りに勝ったというのが、これまでの通説だった。こうした通説は結果を知っているからこそ組み立てられる。だが実際の戦場は誤算だらけだ。信長とて人なら誤算や思い違いはある。それでもそうした誤算をものともせず、大勝利を挙げたところに信長の真価があるのだ。
最後に「今川義元は愚将だったのか」という疑問にお答えしたい。
勝敗には時の運があり、勝敗は兵家の常であるのはもちろんだが、義元はあまりに戦を知らなすぎた。とくに唯一の勝機を逃したのは大きい。唯一の勝機とは、佐々・千秋らを壊滅させた戦いの直後に中島砦に攻勢を掛けなかったことだ。もしもこの時、攻勢を掛けていれば天候の問題はあるものの、一気に織田勢を蹴散らした可能性は高い。
しかし義元は、なぜか緒戦の勝利に酔ってしまった。背後(南)で大高城が解囲されたという情報が届き、それに満足してしまったのかもしれない。
ましてや地形や地勢の把握も甘かった。見通しが悪く、深い藪と泥湿地が取り巻いている進退もままならない死地に自ら入り込むこと自体、愚将としか言えないだろう。義元は沓掛城を動かず、前線を家臣たちに任せるべきだったのだ。
江戸時代後期の軍記物の記載なのであてにはならないが、後にこの戦いの経過を聞いた上杉謙信が、義元の犯した三つの過失として、「信長に対する抑えの勢、ないしは張り番を置かなかったこと」「自軍の軍紀の緩みを放置したこと」「旗本の備えを崩して酒盛りをしたこと」を批判しているが、まさにその通りで、軍事に携わる者は「警戒を怠らない」「常に自軍の軍紀に目配りし、緩みがあったら引き締める」「戦場では絶対に酒を飲まない」ことを徹底すべきだろう。大酒飲みの謙信が言っているので説得力がある。
しかし桶狭間にある長福寺の所蔵文書によると、今川方は四十六人の重臣と二千七百五十八人の兵、織田方は九百九十人の戦死者が記録される。これが事実なら、二千~三千でしかない織田勢にも、相当の損害が出ていたことになる。こんな無謀な戦いを普通の戦国大名はやらない。まさに自軍の損害を顧みない戦い方で、信長は劣勢を覆したのだ。
戦後、信長は義元から奪った太刀に「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」という銘を刻ませ、会心の勝利の記念とした。
桶狭間の戦いは信長の天才的用兵が大勝利を引き寄せたのではなく、互いに誤算と失点を重ねながら、何とか義元のミスに付け入った信長の辛勝だったのだ。
この戦を勝ち抜いたことで信長の台頭が始まり、それとは対照的に今川家の衰退が始まる。
勝者と敗者のコントラストがあまりに鮮やかなだけに、桶狭間の戦いは戦国時代がかくも厳しいものだったと、われわれに教えてくれる。