2012年の森美術館個展での撤去抗議はじめ、これまでさまざまに波紋を呼んできた、会田誠さん23歳のときの作品『犬』。その制作意図を作者本人が詳らかにした『性と芸術』が7月21日発売になりました。「犬」への批判のひとつに、”女性蔑視”があります。かつて現代美術作家として実作し、現在、フェミニズムを射程にいれた文筆家である大野左紀子さんは本書をどう読んだのでしょうか?
王道としての「反時代性」と、性のどうしようもなさと
会田誠は、現代美術において極めてオーソドックスな王道を歩むアーティストである。正統派中の正統派と言ってもよい。と言うと、「女性蔑視のエログロ絵画で人の神経を逆撫でする作家のどこが正統派なのか」「何かと物議を醸すアート界の異端児では?」という声が上がるかもしれない。確かに会田作品、中でも『犬』シリーズがいかに「人の神経を逆撫で」してきたかは、ネットで検索すれば一目瞭然だ。会田誠という作家を受容できるか否かは、あたかも「”エログロ趣味”や”女性蔑視”を受け入れられるか否か」にかかっているかのようでさえある。
後にシリーズとなる『犬』の最初の作品は、1989年、会田が東京藝大油画大学院に入学した年に制作された。いったいどんな動機からその絵は構想されたのか。当時の日本の文化状況の中で、デビュー前の会田はどんな企図をあの作品に込めたのか。それらを本人があますところなく語ったのが、本書の書き下ろしテキストである「I 芸術 『犬』全解説」である。
冒頭で会田は、Twitterに溢れる「悪口」に対し自ら作品解説をすることの「悪趣味」について自嘲気味に触れている。しかし結果的にこのテキストは、一つの作品が誕生する背景には作家自身が詳細に言語化できる客観的文脈が複数存在する、ということの優れた見本となった。また同時にこれは、数々の有名作家を輩出してきた藝大油画科周辺の80年代後半の”暗黙の空気”を活写した、なまなましく貴重な記録でもある。
申し遅れたが、ここで私自身の立場を明らかにしておきたい。私は会田誠より7年早く東京藝大美術学部(彫刻科)に入学し、卒業後は現代美術作家として20年活動した後に廃業し、以降細々ともの書きをしている。その間に制度としての芸術を考察する書を二冊刊行した。現代美術は制度としての芸術の「外」にあるのではない、それも制度だというのが私の立場である。一方で、ものの考え方においてはかつての現代美術からさまざまな啓発を受けてきた。つまり私の芸術に対する構えは、大きな枠での制度批判と個別案件における作品擁護という二重性を持っている。
もう一つの私の関心領域は「性」であり、フェミニズムを射程にいれつつ精神分析の知見を頼りに、性をめぐる根源的な暴力性と受動性について思索してきた。そうした観点から見て、会田誠ほど興味深い作家はいない。
なぜ『犬』は描かれねばならなかったのか。会田によればそれは「マルチな方向に向けられた『抗議』」だったという。1989年当時の藝大で、会田は芸術上の「複数の方向に対峙して」いた。その一つが「現代美術」である。
近・現代美術の流れを一言で言うならば、父殺しの歴史だ。その時代の支配的な考え方やものの見方に抵抗し、誰も意識して見ていなかったものを提示すること、つまりは前衛による「体制」への「抗議」によって、美術は更新されてきた。進歩・発展を旨とする西洋の近代的価値観とも一致するその推進力を担ってきたのは当然、欧米のアートであり、藝大の優等生はそれらを内面化してアート界にデビューしていくのが常だった。
そのいかにも先進的な空気の圧力に反発を覚えていた会田は、学部の「卒業文集」にて「古典主義者宣言」をし「新しさを捨てた」画家として生きていく決意をする。つまり当時の現代美術の状況そのものが、会田にとってはもはや「体制」だったのだ。「体制」への「抗議」として宣言文を書くのはまさしく前衛の作法であり、この時から彼は(「保守」たらんとした当時の意に反して)正しくも現代美術の王道を歩み始めたことになる。
「古典主義者」としての会田が関心を寄せたのが、西洋を常に追ってきた洋画ではなく日本画、それも「アイデンティティの苦闘」を滲ませた戦前の近代日本画だったこと、そして知らず知らず現代美術の「父殺し」の最前線に足を踏み入れていた彼の思想上の「父」に当たるのが、三島由紀夫や小林秀雄だったのは非常に興味深い。
ざっくり言ってしまえば近・現代の芸術は基本的に左翼によって担われてきたが、80年代後半はそうしたスタンスがマンネリ化し硬直の影が見え始めた頃である。会田の抱えた心情左翼芸術への苛立ちは、日本の戦後なるものへの懐疑と通じ、戦後の「抜け殻」のような日本画批判へとつながっていく。
東京国立博物館で、国宝・狩野永徳の『檜図屏風』と対面した会田誠の中で、初めて「日本画解体」としての『犬』の原型イメージが生まれてくる。日本固有のエロティシズムと日本画の特質、敗戦とロリコン文化、近代ヌード絵画のポルノへの移植……複数の文脈を横断する思考を経て、一人の大学院生が美術史を背負う覚悟で『犬』制作へと至るプロセスが本章のハイライトだ。
会田によれば、四肢を切断されて鎖に繋がれた裸の美少女という猟奇的モチーフは、この作品を戦後日本画への「抗議」(もっと引いて見れば、曖昧に左傾化したまま「抜け殻」となった戦後日本社会という「体制」への「抗議」)として際立たせるために選択された、強力かつ効果的な「悪」の意匠に過ぎない。対比をなす画題と画風の緊張関係=「ジレンマ」へのこだわり、その結果としての「ナンセンス」志向には、コンセプチュアルな作家らしい直観が働いている。
断っておくが、会田本人が本章で「自分こそ現代美術の王道を歩む正統派だ」と主張しているのではない。逆に、「世界」「普遍」「進歩」を目指す「王道一派」に対し、彼はマイナスの価値しか持たない「日本」「特殊」「保守」をあえて選択してきた。だが、時代の支配的な空気に抵抗し誰も見ていなかったものを示すことが近・現代美術の本懐だったのであれば、会田誠が、今はほぼ失われたと言ってもよいその王道を愚直に歩んできた古典的にして正統派の現代美術作家であることは、本章の記述からも明らかだろう。
ところで、同時代のアートまわりの空気に抗おうとした一人として、会田の「反時代性」に時折膝を打ちつつ「『犬』全解説」を読了した私はしかし、「ここにははっきり書かれていないことがあるのではないか」と感じた。その微かな欠落感に迂回したかたちで応えていたのが、「Ⅱ 性 『色ざんげ』が書けなくて」である。『性と芸術』とタイトルが付けられた本書で、それらは二つの章で別々に語られており、Ⅱで二回ほど『犬』関係の話題が挟まれるものの、特に「性」と「芸術」の強い関連性が論じられているわけではない。だがこの独立した形式性にこそ、会田作品を読み解く鍵があると私は考える。
端的に言えば、自身の芸術について詳細に解説する I は、作品に現れた作家の”意識”であり、自身の性的関心や欲望について素朴な情熱を込めて語った II は、作品に隠された作家の”無意識”を表しているということだ。無意識の領域がなくては表現は生まれない。だが無意識が作品に現れるのは「症候」としてのみである。言い換えれば、『犬』他の作品で戦略的に選択されているエログロ猟奇趣味の底には、ヘテロ男性の暴力性とその真逆の受動性という「ジレンマ」を引き受ける会田自身の”性のどうしようもなさ”が、通奏低音のように響いているのである。
Twitter上の「悪口」は、通奏低音をノイズとして排除したいがためだろう。誹謗に塗れた『犬』が世界と和解するのは、現代美術が理解された時ではなく、この”性のどうしようもなさ”が受容される時である。
性と芸術
日本の現代美術史上、最大の問題作、「犬」は、なぜ描かれたのか? 7月21日発売『性と芸術』(会田誠著)について