大沢在昌さんの『冬の狩人』ノベルス版の刊行を記念し、試し読みを全5回でお届けします。
新宿署のマル暴・佐江を描く、累計230万部を超える大ヒット「狩人」シリーズの最新作。
本作では刑事を休職中だった佐江が3年前にH県で起きた未解決事件について、ある依頼をうけるところから物語が始まります。
一本のメールが新宿の一匹狼を戦場に引き戻す――。是非お楽しみください!
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* * *
捜査一課に、ぞくぞくと刑事が出勤してくる。やがて一課長の仲田も出勤してくると、川村はプリントアウトしたメールを見せた。
仲田は五十四歳で、H県の県庁所在地であるH市に生まれ育ち、三十六年、H県警につとめているベテラン警察官だ。
「本物か」
仲田も、石井と同じような言葉を発した。
「わかりません。発信者のアドレスは、携帯電話ではなく、インターネット喫茶等のパソコンでこしらえたもののようです」
川村は答えた。
「阿部佳奈の携帯は事件後一度も使われていません」
かたわらに立った石井が補足した。携帯が使用されていないことで死亡説が浮上したのだ。
「それでこの、佐江(さえ)という人物は何者だ」
全員が沈黙した。メールはこう始まっていた。
『突然、メールをさしあげます。わたしは冬湖楼事件で、皆さんがお捜しの阿部佳奈と申します。あの日、殺されるのを危うく逃れ、以来、恐怖と不安に怯える三年を過ごして参りました。
世間では、わたしが上田先生を含むお三方を殺害した犯人の仲間だと疑っておられる人もいるようですが、誓ってわたしは犯人とは無関係です。わたしが殺されずにすんだのは、たまたまあの部屋を離れていたからに他なりません。
トイレに立ち、叫び声が聞こえたので、ようすをうかがうと、ヘルメットをかぶった犯人が上田先生を撃つところでした。恐くてたまらなくなったわたしがふと見ると、非常階段の扉がそこにありました。
今となっては、なぜ階下に降りて、冬湖楼の人たちに知らせなかったのかと悔いるばかりですが、もしわたしがそうしていたら、犯人はその人たちにも銃を向けていたかもしれません。
わたしが非常階段を降り、庭園に隠れておりますと犯人が同じように非常階段を降りてきました。そして止めてあったバイクに乗り、逃げだしたのです。
しばらくのあいだ、わたしはその場から動けませんでした』
「この文面は、いちおう筋が通っています」
川村は捜査一課長の仲田にいった。外部の非常階段を使い、バイクで犯人が逃走したというのも、これまでに判明した捜査結果と一致する。
「それはそうさ。阿部佳奈が共犯だって同じことをいう。それ以外に逃走手段はないのだから」
石井がいった。メールはまだ先があった。
『警察の皆さまは、なぜそのとき、わたしが通報しなかったのかと不審の思いを抱かれると思います。ですが、理由がございます。
その理由とは、あの日、冬湖楼に上田先生、モチムネの大西副社長、兼田建設の新井社長が集まったことと関係があります。三浦市長は、上田先生と大学の同級生ということで、途中顔をだされ、すぐお帰りになる予定でしたので、たまたま巻きこまれたとしかいいようがございません』
「まちがいなく阿部佳奈本人ですよ」
川村はいった。三浦市長と上田弁護士が大学の同級生であったことを捜査本部はつきとめていたが、公表していない。
「だけど週刊誌が報道してなかったか。二人が同じ大学だというのは」
石井がいった。仲田は二人の顔を見やり、無言でメールのプリントアウトに目を向けた。
『お三方が集まられた理由について、ここに記すわけには参りません。残念ながらH県警察に対して、わたしは全幅の信頼を寄せる身ではないからです。ですがこのまま共犯の疑いを晴らさずにいるわけにも参らず、出頭し、わたしの知るすべてをお話ししようと決心いたしました。
ただ、犯人はまだ自由の身ですし、わたしの決心を知れば、襲ってこないとも限りません。そこでお願いがございます。
あるところでそのお名前を知り、この方なら、絶対に信頼できるという刑事さんがいらっしゃいます。その方による保護、同行が得られますものなら、わたしは出頭し、お話をいたします。
その方は、警視庁新宿警察署、組織犯罪対策課につとめておられる佐江警部補です。佐江警部補とわたしは面識がございません。ですが、佐江警部補なら、何があってもわたしを守ってくださる方だと信じられます。
どうか佐江警部補と連絡をとり、わたしを保護してくださるよう、伏してお願い申しあげるしだいです』
仲田は椅子に背中を預け、息を吐いた。
「我々が信用できないってのは、どういうことなんですかね」
石井がくやしげにいった。
「どうします、課長。この佐江という人に連絡をとりますか」
川村は訊ねた。
「俺の一存では決められない。刑事部長にあげてみないと」
仲田は答え、川村を見た。
「お前、この佐江という警部補について、本人に接触しないで調べられるか」
「新宿警察署のホームページとかは当たれると思いますが、ひとりひとりの情報については難しいかもしれません」
「そうだな。刑事の個人情報なんて簡単にはだせないからな」
「去年、研修で知り合いになった警視庁の人間がいて、確かそいつが今、新宿署の刑事課にいます」
石井がいった。
「連絡をとっているのか」
「ラインがつながってはいます。内緒で訊いてみますか」
(つづく)
「信用できるのか。それはつまり、この佐江という人物に、我々が興味をもっていることを秘密にしておけるか、という点でだが」
わずかのあいだ考え、石井は頷いた。
「できると思います。警視庁は大きすぎる、本当は地方の警察で働きたかったっていっているような奴でしたから」
「メールについては、一切口外無用だ。その上で、佐江という人物についてだけ、情報をとれるか」
「やってみます」
「川村は、このメールについて調べてくれ」
仲田は机上の内線電話に手をのばした。刑事部長は一年前に警察庁からきたキャリア警察官で、冬湖楼事件について詳しくは知らない。が、未解決重要事件なので、このメールを端緒に犯人を検挙できれば、大きな得点となる。この佐江という警部補に連絡をとれ、というような気が川村はしていた。
刑事部長がでると、仲田は時間をもらいたいと告げ、了承を得るや立ちあがった。メールのプリントアウトを手にしている。
「他に誰が知っている?」
「石井さんだけです」
川村が答えると、頷いた。
「当分、外には秘密だ」
捜査一課長の仲田が部屋をでていくと、川村と石井は自席に戻った。石井は早速、携帯電話を手にしている。
川村は、阿部佳奈を自称する人物のメールが、どこから発信されたのかをつきとめようと、作業を始めた。東京で二年間勤務したのが、ネットセキュリティの会社だったので、少しはそういう知識がある。
一時間後、仲田が戻ってくると、川村と石井を呼んだ。課をでて、使っていない取調室に入る。
「どうだ?」
「さっき返事がありました。この佐江という人は、現在休職中だそうです」
石井がいった。
「休職?」
「去年、高河(こうが)連合の連中と撃ち合いをして大怪我をしたそうです。退院後、FBIに研修にいき、その後はずっと休職しているとのことです」
仲田は眉をひそめた。
「FBIにまで研修にいって、休職とはどういうことだ?」
「これは噂だそうですが、本人は辞めたがっているのを、上がひきとめているみたいです」
「そんなに優秀だということか」
「わかりません。俺の知り合いは、おっかなくてほとんど話したことがない、といってました。なんでも、新宿の極道には、めちゃくちゃ嫌われているらしいです」
「そっちは?」
仲田は川村を見た。
「東京の荻窪にある『スペース』というインターネットカフェのパソコンから発信されたものでした。昨夜の午後九時十二分です」
川村は答えた。
「そうか。ではまたメールがくるな。このメールに我々がどう対処するか、反応を知りたいだろうからな。よし、東京にいってくれ。このインターネットカフェを見張って、阿部佳奈がきたら、身柄を確保だ」
仲田はいった。
勘は外れた、と川村は思った。刑事部長は佐江という警部補の協力を得ずに、事件を解決する道を選んだようだ。
だが阿部佳奈が、同じインターネットカフェを使わなかったら、どうするのだ。東京には、それこそ何百軒、もしかすると千軒近いインターネットカフェがある。そのときのことを課長は考えているのだろうか。
(つづく)
冬の狩人
累計230万部を超える大人気「狩人」シリーズ!! その最新作『冬の狩人』を紹介します! 3年前にH県で発生した未解決殺人事件。行方不明だった重要参考人からH県警にメールが届く。新宿署の刑事・佐江の護衛があれば出頭するというのだ。だがH県警の調べで佐江は、すでに辞表を提出していることが判明。“重参"はなぜ、そんな所轄違いで引退間近の男を指名したのか? H県警捜査一課の新米刑事・川村に、佐江の行動確認が命じられた――。