昆虫図鑑制作の苦しくも楽しい舞台裏をつづった、丸山宗利氏の『カラー版 昆虫学者、奇跡の図鑑を作る』(幻冬舎新書)が発売即重版となり大きな話題を呼んでいる。
今回は本書の一部を紹介。図鑑大好き少年だった筆者は大人になっても図鑑を愛する「図鑑おじさん」となり、とある図鑑にクレームを入れたのだが……。
* * *
始まりはクレームだった
2020年の夏の終わり、ある図鑑の内容についてどうしても気になることがあり、学研の編集者である知り合いのYさんにメールをした。
今読み返しても、なかなか厳しい内容である。Yさんには以前、私が翻訳した本でお世話になったことがあり、信頼のできる方だったので、ありていに言わせていただいたということもある。
その内容について誰にも話すつもりはないが、私のメールの最後にはこうある。
「学研の図鑑というのは、私にとっては聖典みたいなもので、あらゆる憧れの世界が詰まった夢の本でした。どうか、これからも良いものを作ってください」
Yさんは、私の疑問について、わかる範囲で真剣にお答えくださったが、あいにく別の部署に異動されたとのことで、別の編集者につないでくれた。
その時に初めて知り合ったのが、今回の図鑑の立役者の一人である牧野嘉文さんである。
驚いたことに、実は私がくだんのメールを書く半年以上前、2019年の末から、牧野さんは私に図鑑の監修をお願いしたいと考えていて、諸事情により声をかけるかどうか悩んでいたそうだ。
そこへ、このやりとりがきっかけとなり、私は『学研の図鑑LIVE 昆虫 新版』(以下、新版)を牧野さんと一緒に作ることになったのである。
私はいわゆるクレーマーではなく、自分に関係のない書籍にわざわざクレームをつけたことなど、これが初めてだった。たまたま知り合いの編集者が担当部署にいたので言ってみようと思ったわけで、ほとんど気まぐれにメールしたと言ってもよい。
それが子供のころから思い描いていた夢につながるとは、人生とは何があるかわからないものである。
その前後の牧野さんとのやりとりを見返すと、込み上げるものがある。牧野さんは、読者のために良いものを作りたいという思いが強く、とにかく誠実だが、同時に猛烈に熱い人でもある。わずかなやりとりで、そのことがすぐにわかったし、その印象は今でも変わりない。
またその時は、「恐ろしく気骨のある編集者だな」と思い、それに感動してしまったのであるが、その後の編集作業で、気骨だけではなく、編集能力の高さにも驚かされることになった。
実は牧野さんからの最初のお誘いは、「LIVE」創刊(2014年)以来初となる大改訂(新版の制作)にあたり、複数の監修陣の一員として、私が何かを担当するという内容だった。
しかし、私はすぐにお断りした。
このような機会は一生に何度もないだろう。だからこそ、私の強い希望として、かかわるからには、企画の段階から主体的に意見し、完全に新しいものにしたかったのである。
また、私よりベテランの監修陣のなかでは、まだ中堅の私はどう考えても声をあげにくい。私にも湯水のように時間があるわけではなく、思い残すことの多い内容の図鑑になるようであれば、携わる甲斐がないと思ったのである。断る際、誘ってくれた牧野さんに、そのことも正直にメールで伝えた。
憧れていた学研の図鑑だった。泣く泣く断るという気持ちだったが、10年後でも、15年後でも、次の大改訂の時にまた声をかけてくれるだろうと自分に言い聞かせた。
しかし、次に牧野さんから来た返信には目を瞠(みは)った。
「一生のうちで、会社の顔ともなる昆虫の学習図鑑を作れる機会はわれわれ編集者にとっても、それほど多くはありません」
牧野さんも同じだった。現在の企画内容を見直してでも、一緒に作りたいと言ってくださったのである。
当時、性格はまったく異なるものの、私は別の子供向け図鑑を作っていたところだった。その図鑑の制作は私が主体というわけではなく、外国産種を中心とした構成で、企画に沿ってさまざまな作業を行うものだった。
それを作っていくうちに「いつか日本産種の図鑑を作ってみたい。自分が一からその図鑑を作るなら、こういうものにしたい」という、構想とまではいかないけれど、別の理想像のようなものができていった。
私にとっても、今回声をかけていただいたのは、満を持してと言ってよいほど、ちょうど良い時機だったのである。
最初のクレームからの牧野さんとの出会いといい、学研が新版を出そうとしていた時機といい、少し恥ずかしい言い方にはなるが、この図鑑作りに私は運命のようなものを感じた。
無謀すぎる発案「全種生体、白バック撮影」
私が考えていた理想像は二つあり、いずれも実に単純なものである。
まず、昆虫の何よりの特徴は多様性だ。世界で100万種以上の昆虫が知られており、実際には500万種いるとも、1000万種いるとも言われている。
日本だけでも3万数千種が知られているが、まだまだ名前のついていない種が多く、本当は6万種~10万種はいるのではないかとも言われている。
その生活様式や姿かたちも含め、昆虫はあらゆる生物のなかでも抜きん出た多様性を持つと言える。そのような昆虫の多様性と、どのようにして多様になったのか、その進化の道筋をわかるようにしたいというのが、まず一つ目の理想像である。
一言で言ってしまえば、「昆虫の多様性と進化がわかる」という内容である。学研も、新版を作るにあたって、何か一本の筋があるものを目指しており、その趣旨と一致するものとも言えた。
日本は昆虫学が盛んで、たくさんの本が出ている。しかし、単純とはいえ、その大切なことがわかりやすく解説された本というものがほとんどない。昆虫学者でさえ、そのことを平易に説明できる人はほとんどいないのである。
たとえば、「昆虫が多様化した主な理由を教えてください」とたずねられて、的確に回答できる昆虫学者はあまりいないだろう。それくらい、日本は昆虫学が盛んであっても、教育や普及啓発という面ではまだまだ不十分なところがある。
もう一つの理想像は、「すべての昆虫を生きた姿の写真で掲載する」ということだ。
これまでの図鑑の多くは、昆虫の絵や、標本の写真を並べたものである。もちろん、それらの図鑑にも良い点はあるし、私もたくさんの刺激を受けた。
しかし、図鑑を手にした人、とくに子供がつかまえた虫の名前を調べる時、わざわざ標本にしてから調べるということはめったにないはずだ。ましてや絵は、特徴をつかんでいたとしても、実物と同じ印象を受けるものではありえない。
そう考えると、生きた姿の写真に勝るものはないと考えた。何より昆虫は生きた姿がいちばん美しい。
ただ、生きた昆虫の写真であれば何でもいいというわけではない。
昨今、デジタルカメラの普及に伴い、たくさんの人が野外で昆虫を撮影しているが、植物や地面の上にいる写真では、昆虫の輪郭がわかりにくく、とくに図鑑のように小さく印刷されると、さまざまな情報が失われてしまう。
そうなると、白い背景で撮影する「白バック」という方法が最良と言える。
生きた昆虫を白バックで撮った図鑑は、小規模なものであれば、これまでにもいくつかあった。
しかし、さまざまな昆虫を幅広く扱い、なおかつ同定(名前を調べること)に適した角度で撮影された写真を集めた図鑑というものは、今までなかった。だから、今回の図鑑に向けて、ほとんどの写真を新しく撮り下ろす必要がある。
「昆虫の多様性と進化がわかる」ということは構成の問題なので、十分に実現は可能である。しかし、図鑑の命は写真や図であり、「すべての昆虫を生きた姿の写真で掲載する」というのは、はっきり言ってこの企画の難易度を格段に高いものにしてしまう。
私は内心、無謀かもしれないなと思いつつも、牧野さんにこの提案をしてみた。
「大変ですよ」とは言い添えたが、あとから思えば牧野さんはその大変さの程度をあまりわかっていなかったのかもしれない。二つ返事で同意してくださった。
「本当にいいのかな」とも思ったが、提案した私が大変さを説明して思い留まらせるのもおかしな話である。それに、この試みに挑戦したいという私の希望も大きなものだった。
少し不安を感じながらも、牧野さんの前向きな言葉に励まされ、あとはやるしかないと決心した瞬間だった。
偉そうなことを言うが、私の人生で決めていることがある。何か新しいことをする時、確実に実現可能なことをするより、多少とも自分の限界を超えたことに挑戦すべきだということだ。そうしないと成長できないことは明らかだし、何より面白くない。
私自身、成長した立派な人間だとは思っていないが、少なくともその方針によって、これまでに充実した気持ちを味わえたことが何度もあった。
ましてや夢にまで見た昆虫図鑑の制作である。実現の可能性ばかりに気を取られず、何より初めて見た子供たちが目を輝かせるもの、自分が小さな時に感動した気持ちを伝えられるようなものにすることだけを考えればよいと思った。
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