彩瀬まるさん4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』。お風呂のお湯がじっくり体を温めるように、自分の過去や今や未来をまるごと包み込んで温めてくれるような感動に包まれる本作。これは恋愛小説なのか? 夫婦小説なのか? 家族小説なのか? 最初は冷たい海やプールの水が体に馴染むように、「え?」「ん?」という小さな日常のひっかかりを描くこの物語がどんどん形を変えあなたの脳内を価値観ごとまるごと浸食していく不思議な感覚をお楽しみください。
* * *
わからないことを聞けるようになったのは、もっと大人になってからだ。
「はきはきした感じが好きだったから」
「なにも考えてなかった、ぼーっとしてた」
「冬は体を動かしにくいなって思ってた。親父の養命酒を内緒で飲んだこともあった」
「夜は気まま。朝は時間があると、あとで帰ってくる親父の分もトースト焼いたり、目玉焼き作ったりしてから登校してた」
「友達の、制服のシャツのアイロンを母ちゃんにかけてもらってる的な話を聞くと、いーなー俺もそういうのされたいなーって思ったけど、それくらい。アイロンは自分でかければよかった」
十八年かけて、ぽつりぽつりと答えをもらった。
黒いスーツの左胸に喪主の胸章をつけた三十三歳の虎治は、通夜ぶるまいで残った寿司を口に運びながら、隣の椅子に置かれた父親の遺影にちらりと目をやった。通夜の最中、正面に置かれていたその大きな遺影の周囲には、白い花がふんだんに飾られていた。
「親父は仕事でバタバタしてたし、俺も学校とか部活とか忙しかったし、そんなに話すこともなかった。ただこう、生活を回していくための協力はする、みたいな」
「素敵な関係だね」
「そう? そうかな」
「お父さんと対等っていうか、家族の一員としてお互いに信頼している感じがいいなって思うよ」
私の胸にもたれて眠る新の顔を覗いた。今日は知らない大人に囲まれて疲れたのだろう。通夜には虎治の父親を知る自衛隊関係者がたくさん参列した。虎治はその一人一人に頭を下げ、挨拶をしていた。六十八歳なんてずいぶん早い、真面目ないい人だったのに、と悲しみに沈む会場で、大活躍したのが新だった。参列者たちは虎治のそばをうろちょろする新に気づくと、こんなにかわいいお孫さんに会えたんだ、清春さんは幸せだったねと目を和ませ、ぼうやいくつ? と決まって聞いた。新はすっかり答えるのが上手になって、にしゃい! と指を二本立てて元気な返事を繰り返していた。
「対等かはわからないけど、これこれをやっておいてくれって頼まれることは多かったかな。俺もいやじゃなかった」
十五歳で家のことを当たり前のようにこなしていた虎治は、すでに完全な子供ではなかったのだろう。親への鬱屈を抱いていた分、私の方がおそらく子供の割合が多かった。
「今日、お義母さんは?」
「弔電が来たよ。まだ生きてるみたい」
それ以外わからんけども、と虎治は肩をすくめる。
虎治の母親は、虎治が赤ん坊の頃に体調を崩して実家に帰ってしまったらしい。詳しい背景はあまり説明されない。虎治は、もともと体の弱い人だったみたいよ、と他人事のように語った。ともあれ、何人ものベビーシッターに抱かれて育った虎治と、その段取りを行った清春さんの相性は悪くなかったのだろう。父親について語る虎治の声に淀みはない。
今日の通夜に、私の父親はやってこなかった。母親だけ、黒いパンツスーツ姿で香典を持って顔を出した。父親は持病の腰痛が思わしくないという。
父親が家にいなかった時間が、問題を孕んだものだったと知ったのは大人になってからだ。
新が生まれたばかりの頃、母親が「赤ん坊を抱きたい」と二回ほど自宅を訪ねてきた。私は出産にあたり里帰りをしなかった。できればあの古い町には二度と帰らずに一生を送ろうと考えていた。とはいえ、母親の訪問そのものは別にいやではなかった。手土産にちょっといいおにぎりやサンドイッチなど、つまみやすい惣菜を持ってきてくれてありがたかった。
「お父さんって今でも忙しいの?」
孫の顔も見に来ないんだなと呆れて聞いた。すると楽しそうに新を揺らしていた母親が、壁を這う虫でも見つけたような苦々しい表情を浮かべて言った。
「町内に幼馴染がいてね。その人も結婚してるんだけども。ときどき二人で遊びに出かけてるみたいよ。いい年してほんと馬鹿だよねえ。いやになる」
私は言葉を失った。幼馴染と不倫をしている父親より、それを馬鹿だよねえで済ませている母親の方がよくわからなかった。
「お、お母さんどうして離婚しないの? っていうか、もっと早くにしなかったの?」
「だって、それがわかったときにはもう真人もあんたも生まれてたし。悲しいとかより、馬鹿馬鹿しくってさ。それにあの人、お金だけはちゃんと家に入れるからね」
しないよ、と母親は言った。それが当たり前、みたいな口調だった。
本当は腰痛なんて方便で、父親はもうあの家に暮らしていないのかもしれない。五つ年上の兄は大学を卒業後、地元に戻って役所に勤め、同級生と結婚した。子供が二人いる。母親のモバイル端末の背景画像は、いつも世話をしている兄の子供たちの笑顔だ。私は母親が彼女自身の暮らしをどうとらえているのか、幸福なのか不幸なのか、それともまあこんなものだみたいな感じなのか、まるでわからない。不倫が発覚してからも、父親に多めの小遣いを渡していたのだろうか。それもわからない。聞かなかった。
テーブルに残った皿を片付けてもらい、葬儀社の担当者に礼を言って食事会場を出た。幅広の祭壇いっぱいに花が飾られた式場へ戻り、白い棺の、ご遺体の顔の部分に設けられた窓を覗く。六十八歳の、加々見清春さんが目を閉じている。死因は大腸癌だと聞いた。先月プリントアウトした新の写真と果物を送り、お礼の電話をもらったばかりだった。化粧のおかげで肌につやがあり、本当にただ眠っているように見えた。
鼻梁の真ん中あたりが張り出した鼻のかたちと、眉の豊かさが虎治と似ている。ご存命の頃も、横顔が似ていると思う瞬間があった。でも、表情がまるで違った。どこか意識的に力を抜いて生きていこうとしている感のある虎治と違って、清春さんはいつも眉間のあたりに一本気な険しさがあった。勝負事が好きで、野球ファンだった。まだ言葉もおぼつかない新を膝の上にのせて、中継を観ながら贔屓の選手の名前を教えていた。
また明日来ますね、今日はお疲れさまでした、と声には出さずに挨拶をする。新の寝顔をそちらへ見せて、式場を後にした。
帰りのタクシーで、虎治が思い出したように言った。
「だらしない、ってよく怒られたな」
「ふーん」
虎治と私なら、私の方がよっぽどだらしない。新の保育園の持ち物も、入れ忘れをするのはだいたい私だ。虎治はいつもハンカチとウェットティッシュを持っているし、歯間ブラシを使っているし、二日に一度はモバイル端末を除菌している。
「だらしないやつは舐められる。そんなやつのところにまともな仕事は来ない。ちゃんとしろって感じだった」
「厳しい」
「親父も気を張ってたのかな」
疲れていたので、それ以降は二人とも家まで黙っていた。対向車線のヘッドライトが次から次へと窓を染める。膝の新が温かいせいで、ひどく眠い。
制服を着ている虎治が、叱られている姿を見たことがある。意識が途切れる間際に思い出し、ぴくっと指先が跳ねた。
(次回につづく)
かんむり
私たちはどうしようもなく、
別々の体を生きている。
夫婦。血を分けた子を持ち、同じ墓に入る二人の他人。かつては愛と体を交わし、多くの言葉を重ねたのに、今はーー。夫が何を考え、どんな指をしているのかえさえわからない。
夫婦とは、家族とは、私とは。ある女性の人生の物語。
著者4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』刊行記念特集です。