自宅マンションに殺人犯が住んでいる? 死体はない、証拠もない、だけど不安が拭えない――。
平凡な日常に生じた一点の染みが、じわじわと広がって心をかき乱す、ミステリー長編『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。
* * *
「下の階で、水漏れがあったみたいで……こんな時間にすみませんが、流しの下と、洗濯機のホースを確認していただけませんか」
そんな一言で、彼女はあっさりと私を部屋へと招き入れた。確認させて、ではなく、確認して、と言ったのがよかったのだろう。私は彼女に見えないようにほくそ笑む。
留守がちな夫が出張中であることは、調べがついていた。深夜というには早い時間だが、ここまで、誰にも見咎められずに来たという自信はある。
後ろ手に玄関の鍵を閉め、靴を脱いであがって、こちらに背を向けている彼女の脇腹にナイフを当てた。
振り向いた彼女の口をふさぎ、騒ぐなと短く告げる。そのまま、華奢な身体を押すようにして短い廊下を進み、居間へと移動した。服の上からでもナイフの切っ先を感じたのだろう、彼女はおとなしく従う。その両目から涙が溢れた。ぞくぞくと快感が背中を駆け上る。この表情が見たかった──。
順調だったのはそこまでだった。
「姉ちゃん?」
不審げに呼ぶ声がして、振り返る。
五、六歳の子どもが、奥の部屋──間取りによれば、和室のはずだ──から出てきて、こちらを見た。ばちり、と目が合う。
いないはずの相手を見つけて、子どもは混乱しているようだったが、それは私も同じだった。どういうことだ。彼女にきょうだいはいなかったはずだ。少なくとも同居はしていない、新婚の夫と二人暮らしのはず。たまたま今日、親戚の子どもが泊まりに来ていたのか。運が悪い、と舌打ちをしたくなった。
私が彼女を押さえつけ、ナイフを突きつけているのに気づいた子どもは、こぼれ落ちそうなほど目を見開いた。玄関へと走って逃げ出すようなら止めなくては、と思ったのだが、なんと無謀にも、こちらに向かって突進してくる。
「姉ちゃんから離れろ!」
一人前の口をきく、と愉快に思う気持ちもあったが、騒がれては面倒だ。
隣の部屋は両親が共働きで帰りが遅く、留守番の小学生の子どもしかいないし、その子はいつも大音量で音楽を聴いているから、多少物音をたてたところでどうということはない。それは下調べ済だったが、それでも、大声をあげられたら、他の部屋の誰かに届かないとも限らない。
子どもがさらに大声を出そうと口を開けたのを見てとり、私は片手でその胸倉をつかんだ。
軽くて、簡単に持ち上がる。そのまますぐ横の壁に思い切り叩きつけると、子どもはぎゃっと潰れたような声を漏らした。
ナイフを突きつけられたままの彼女が短く悲鳴をあげる。
体重をかけて蹴りつけると、小さな身体はぐんにゃりとうずくまって動かなくなった。
やめて、と彼女が泣き声をあげたので、
「騒いだら子どもを殺す」
ぐっと顔を近づけて、もう一度、低い声で脅しつける。
彼女は恐怖に表情を強張らせ、言われたとおり黙った。
青ざめた顔、悲愴な面持ちが魅力的だった。
想定外の事態ではあったが、彼女を従わせるための人質ができたと思えば、結果的にはよかった。
顔を見られたから、子どもは後で口を封じなければならないが、大した手間でもない。さっきからぴくりとも動かないので、もう死んでいる可能性もある。
邪魔にならないのなら、どうでもいい。
まずは彼女だ。
怯えて震えているメインディッシュに、さて、と向き直った。下ごしらえに時間をかけた分、じっくりと味わいたい。
何人かの女たちに、撲殺、扼殺、色々な方法を試した結果、死体が好みの形になるのは刺殺だとわかった。ただ、自分の服も汚れてしまうので、犯行後に人に見咎められるリスクは高い。扼殺や絞殺は、自分の手の中で命がふっと失われる感覚がよかったが、窒息させると死体の状態がよくない。首を絞めていると女の顔が赤くなり、目も充血して気持ちが悪かった。
やはり刺殺だ。
目の前の彼女は美しい。せっかくなら、最後まで、その美しさを損ないたくなかった。
彩り程度ならいいが、あまり血塗れにしてしまうのは違う。傷をつけるのは腹から下にして、あくまで血を流して弱らせるだけに止めたい。痛みで暴れられては面倒だし、彼女も私も汚れてしまう。死んでいくところが見たいだけで、別に痛めつけたいわけでもないのだ。加減が難しい。
私は彼女を押さえつけ、まずは太ももをナイフで切った。
隣人を疑うかなれ
9月21日刊行の、織守きょうやさんの最新ミステリ長篇『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。