自宅マンションに殺人犯が住んでいる? 死体はない、証拠もない、だけど不安が拭えない――。
平凡な日常に生じた一点の染みが、じわじわと広がって心をかき乱す、ミステリー長編『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。
* * *
ビールを買いにきたコンビニの自動ドアの手前で、高校生くらいの女の子とすれ違った。
時刻は午後十一時過ぎ、女の子が一人で出歩くにはちょっと遅い時間だ。──私が女子高生だったころとは、そのあたりの感覚も違うか。
職業柄、若い子の服装チェックが癖になっている。彼女は派手なプリントのTシャツの上にジップアップパーカを着て、鎖骨のあたりまで伸びた髪は、下半分だけがピンク色だった。
そういえば、最後に美容院に行ったのは何か月も前だ。在宅で仕事をしているし、外出するときもおだんごにしてしまえば目立たないので、手入れもせずに伸ばしっぱなしだった。久しぶりにカットして、気分を変えるために、インナーカラーでも入れてみようか。
在宅のデジタルアシスタントとして四年間手伝ってきた週刊連載の漫画がとうとう最終回を迎えることになり、ついさっき、最後の背景データを送信したところだ。収入源の一つがなくなることになるけれど、長期連載のアシスタントとしての経験があれば、すぐにまた次の仕事も見つかるだろう。それまでの間、自分の作品に取り組むのもいいかもしれない。今もちょこちょことイラストの仕事はもらっているが、漫画の投稿や持ち込みは久しぶりだ。
原稿をしあげたテンションのせいか、眠くはなく、深夜だというのに、やる気に満ち溢れていた。とはいえ、今夜のところは自分をねぎらって、明日は昼まで眠ろう。眼鏡じゃなくコンタクトにして、メイクをして、好きなものを食べに行って、それから、作品のアイディアを練る。そうだ、美容院の当日予約はとれるだろうか。わくわくと頭の中で休日の予定を組み上げ、棚の商品を手にとった。まずはこれだ。定番の焼き餃子。それからもちろん、缶ビール。
自分一人のささやかな打ち上げのつもりで、他にも複数のつまみと、いつもよりちょっと高級なアイスをかごに放り込む。
コンビニを出ると、さっきすれ違った女の子が、ガラスドアの脇に立っていた。有名カレー店とのコラボメニューのポスターの前で、スマホをいじっている。
プラスチックにラインストーンを埋め込んだ髪留めが、サイドの髪に留まっていた。可愛い。カラーイラストにしたら映えそうだ。こうやって若い子のファッションを見て参考にしないと、絵柄はすぐ古くなるから──。横目で観察しながら通り過ぎる。
コンビニは、住んでいるアパートから徒歩五分の距離だ。レジ袋を振りながら歩いて帰り、ビールとアイスを冷蔵庫と冷凍庫にいったんしまってから、シャワーを浴びた。
さて、お楽しみの時間だ。
翌日の仕事があるときはできなかった、贅沢な夜の過ごし方だ。
私は生乾きの髪のまま、首にタオルを巻いて、ベランダに出た。夜風が気持ちいい。冷えた缶ビールに口をつけると、信じられないほどおいしかった。この瞬間まで我慢した甲斐があった。
「最高……」
思わず声が漏れる。
小さな物干しを置くのがやっとの狭いスペースだけれど、こうして仕事終わりに夜風を感じながら飲むことができるだけで、ベランダつきのアパートで本当によかったと思う。ごくごくと二口め、三口めの喉ごしを楽しみ、ぷは、と息を吐いた。
あっというまに半分近く減ってしまったが、ビールはもう一本買ってあるし、アイスもある。缶ビールを足元に置いて、レジ袋からチーズちくわのパックを取り出し、一つ、口に放り込む。
このベランダがもう少し広かったら、キャンプ用の折り畳み椅子を買って置けるのだけれど、そこまで贅沢は言えない。立ったまま左手にチーズちくわのパックを持ち、右手で足元の缶を拾い上げてビールを流し込んだ。くぅ、とまた声が出る。舌に残るチーズのうまみとちくわの塩気がビールの爽やかさを引き立てていた。
部屋に背を向けて、ベランダの手すりにもたれかかる。どうせなら自分の部屋の中より、外の景色を見ながら飲みたい。
とは言っても、住宅街の真ん中なので、見えるのは、似たような建物と、ぽつぽつと並んだ街灯くらいだ。建物の間からかろうじて見える車道の向こうにビールを買ったコンビニがあるけれど、この角度からは見えない。
このアパートの通りを挟んで反対側に、七階建てのマンションが建っていて、ここからの視界の大部分をふさいでいた。あっちのベランダは、家庭菜園をやれそうなくらいには広い。
いいなあ、と思いながらクリーム色の壁を眺めた。
築年数は結構いっているようだが、数年前に中をリフォームしたらしく、家賃はフリーランスの漫画アシスタント兼イラストレーターとしては、ちょっと躊躇する金額だ。相場からいうとお手頃なのかもしれないけれど、それでも予算オーバーだった。
自分の連載を持てるようになったら、あそこに住みたいな。生活圏も変わらなくて、気楽だし。
三分の二ほど電気の消えているマンションの窓を眺め、そんなことを考えながら、二つめのチーズちくわを半分かじる。
私の部屋のベランダからは、隣のマンションの裏口というのか、駐車場と駐輪場から直接建物に入れる、東側の出入り口がよく見える。マンションの住人は、こちらの出入り口を利用する人も多いようだ。若奥様風の女性や、上品な中年女性、スーツ姿の男性などをよく見かけた。
ちくわの残り半分を咀嚼しつつ、何気なく視線を建物全体から、東側出入り口へと落とすと、ちょうど、誰かが駐車場に入っていくところだった。
駐車場の明かりに照らされた顔を見て、あ、と思う。
コンビニで見かけた、あの女の子だった。このマンションの住人だったのか。
彼女の姿は、すぐに駐輪場の屋根と植え込みの陰に隠れてしまう。
よく見えなかったが、もう一人彼女の前を歩いていて、先に敷地内に入っていったようだから、保護者が娘をコンビニまで迎えに行ったか、夜遊びを叱って連れ帰りでもしたところかもしれない。
数メートルの距離にある隣の建物でも、どんな人が住んでいるかは、知らないものだ。
こういう何気ない人間観察から、漫画のネタが浮かぶかもしれない。
そうだ、あのラインストーンの髪留め、あのカラーリングとデザインを眼鏡に転用して、キャラクターにかけさせたらどうだろう。ずれた自分のセルフレームの眼鏡を直し、そんなことを思いつく。
私は買ってきた餃子をレンジで温めるため、一度部屋の中へと戻った。
隣人を疑うかなれ
9月21日刊行の、織守きょうやさんの最新ミステリ長篇『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。