ゲーム、アプリ、ドラマの「消化」を自分でノルマにしてしまっていませんか?
Z世代を中心とした意識の変化を分析する幻冬舎新書『タイパの経済学』より、内容を抜粋してお届けします。
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「自分の精神を満たす消費」の時間を蝕む「じゃないモノ消費」
ここまでを整理すると、「必要不可欠ではない消費」には、交流的価値の創造を目的とした (1)「外部刺激を受けて必要に駆られる消費」と (2)「消費した使用価値によって精神的充足につながる消費」があり、生きるという目的が達成された現代消費社会において、私たちはむしろ「必要不可欠ではないモノ」を熱心に消費しているのだ。
そのなかでも、消費が直接効用を満たすのではなく、交流するためのネタとして求められている (1)「外部刺激を受けて必要に駆られる消費」においては、そのネタを用いて「コミュニケーションがとれる状態になっておく」ことがその欲求の本質にあり、その手段はさまざまだ。
第3章で「コンテンツを観た状態になっておく」という目的を達成するうえでの手段を例に挙げたが、じっくり視聴することは時間もコストもかかるためタイパが悪く、あらすじやネタバレで内容を知ることはタイパがいいわけだ。その消費によって直接満たされるわけではないからこそ、手間や時間を省くことが求められ、世の中における時短以外のタイパの側面はおおむね (1)「外部刺激を受けて必要に駆られる消費」といえるだろう。
一方で、(2)「消費した使用価値によって精神的充足につながる消費」は他人を顧みないで生まれる、主体性のある消費であり、他人がどんなに無駄な消費だと思っても、自分さえ価値が見出せればそれでいい。そのため、手間や時間を省くタイパや、人によってはタイパ度外視でその消費対象に没頭することもあり、コスパすら検討されないことも普通である。
(1)「外部刺激を受けて必要に駆られる消費」は、欲求の充足が他者(社会)の存在によって見出されるため、その消費の使用価値に重きを置かれない。ということは、本来必要じゃないけれども、交流するためのツールとしてしょうがなく消費される「必要不可欠ではない消費」であり、本人にとっても必ずしも必要「じゃないモノ消費」なのだ。
そのため、消費者が合理的に行動するのならば、消費に対して慈しみや愛しさすら感じることができる (2)「消費した使用価値によって精神的充足につながる消費」に高いプライオリティが置かれるべきなのだが、実際そういうわけでもない。
SNSの普及により、私たちは日々大なり小なりの流行が生まれていることを知り、友達と共有するためにあまり興味がなくてもそれを消費することに熱心になる。
さらには、コミュニケーションを目的としたコンテンツ消費とは別に、広告やマスメディアの情報から刺激を受けて手を出したスマホゲームや、無料ということだけが魅力のマンガアプリ、惰性的に観ているドラマなど、自分に課したノルマの達成のために、消費しなくてはいけないコンテンツを消化することに躍起になって、「じゃないモノ消費」がルーティン化していることもある。
その結果、推し活をはじめとした自分にとって唯一無二の価値の消費すら、ルーティンと化した「じゃないモノ消費」のなかに埋もれ、おざなりになっていく。たしかに他人と交流することや、世情を追いかけることは、自身の健康における社会的な充足感の追求につながる。また、そのようなつながりが与える安寧感が精神的な充足につながることも確かだが、「交流的価値」を媒介とせず、直接自身の精神的充足につながるような唯一無二の消費は、大切にされるべきだと筆者は考える。
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この続きは幻冬舎新書『タイパの経済学』でお楽しみください。