ことばのスペシャリスト集団・国立国語研究所が叡智を結集して身近ながらも深遠な謎に挑む、人気シリーズ第2弾『日本語の大疑問2』より、一部を抜粋してお届けします。
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「稲妻」は「いなずま」ではなく「いなづま」ではないでしょうか
回答=宇佐美洋
原則として表記に「づ」「ぢ」は使わない
現代日本語のほとんどの方言では「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」は完全に同音です。したがって表記の際には、原則として「ず」「じ」を使用し、「づ」「ぢ」は使わないことになっています。昭和61(1986)年の「現代仮名遣い」に関する内閣告示第1号(文化庁ウェブページから参照可)によれば、「稲妻」もこの原則に従って「いなずま」と書く、とされています。
一方、「つ」「ち」で始まる語の前に別の語が付いて新しい語を作る際、「連濁」(2語目の最初の清音が濁音化すること)が起こる場合には、元の語の表記を生かし「づ」「ぢ」を使用することになっています。例えば、
「一本」+「釣り(つり)」→「いっぽんづり」
「鼻」+「血(ち)」→「はなぢ」
などがその例です。
「稲妻」は、語源を考えるとこれらと同類であるといえなくもありません。日本には古来、「稲と雷とが交わることで稲穂が実る」という考え方がありました。文字どおり、「稲」の「妻」だから「いなづま」なのです。そうすると「いなづま」と書いた方がいいという考え方も、理由がないことではありません。
判断基準は「語構成の明瞭さ」
では、「一本釣り」は「いっぽんづり」なのに、「稲妻」は「いなずま」となっているのはなぜでしょうか。それは、現代日本語として「語構成」がどの程度はっきりしているか、という判断によります。
「一本釣り」は「一本ずつ釣ること」、「鼻血」は「鼻から出る血」のことです。ですから「いっぽんづり」を「いっぽん+つり」に、「はなぢ」を「はな+ち」に分解することは非常にたやすいことです。このような語の場合、「語構成」は極めて明瞭である、ということができます。
一方「稲妻」はどうでしょう。「稲と雷とが交わることで稲穂が実る」という古い信仰は、現代の日本人にとって決してなじみの深いものではありません。特別な知識がなければ、「稲妻」の「稲」と「妻」がどういう関係にあるのか、非常に分かりにくいのではないでしょうか。
こういう場合、「いね+つま」という語構成は必ずしも明瞭であるとはいえません。そこでこれ全体で不可分の1語と考え、冒頭に挙げた原則どおり「ず」を用いて「いなずま」と表記することにしているのです。
しかしこのようにいうと、「いや、自分にとって『稲妻』が『いね+つま』であることは、漢字表記からいって明らかなことで、『いなずま』という表記にはどうしても違和感がある」という反論もあることでしょう。
それはまさにもっともな反論です。そもそも、「語構成が明瞭かどうか」という判断自体、幅のあるものですので、「明瞭か不明瞭か」という一線がきっちりと引けるものではありません。「語源」をどの程度重視すべきか、という考え方も、人によって大きく異なることでしょう。
このように、「いなずま」・「いなづま」、いずれの表記にもそれなりの理があり、どちらがより正しいとはいえません。ことばは、常にたった一つの正しい形が決まっている(誰かが決めてくれている)というわけでは決してないのです。
実は内閣告示でも、「稲妻」は「いなずま」と書くのを本則としながらも、「いなづま」と「書くこともできるものとする」と明記されています。このような語にはほかに、
「さかずき ← 酒(さけ)+杯(つき)」
「くんずほぐれつ ← くみつほぐれつ」
などがあります。「さかずき/さかづき」「くんずほぐれつ/くんづほぐれつ」、いずれの表記も誤りではありません。
宇佐美洋(うさみ・よう)…東京大学大学院 総合文化研究科 言語情報科学専攻 教授。言語の「正しさ」そのものでなく、「正しさ」を決める価値観の姿について、またひとが、異質な価値観も受け入れられるようになるための方法について、考察を行っている。