井沢元彦さんと言えば、「週刊ポスト」で連載中の「逆説の日本史」シリーズ。読者の熱烈な支持を得て、累計発行部数は580万部を突破しています。今回の書き下ろし『真・日本の歴史』でも、従来の歴史観を覆す斬新な視点が冴えわたります。本書より「はじめに」をお届けします。
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私は今、怒りに燃えています。
なぜこれほど腹を立てているのかというと、日本の歴史教育があまりにもひどいことになっているからです。
今、日本史嫌いの若者が増えていますが、当然の結果でしょう。
なぜなら、学校で使われている教科書は「欠陥」が多く、本当は非常に面白いものである歴史が、テストのためのつまらない暗記科目になってしまっているからです。確かに教科書にはほとんど「事実」が書かれています。しかし、「意味」もわからず、ただ年号や名称を記憶するだけの教科がいったいなんの役に立つのか、そう思っている人は多いはずです。
つまり、今の若者の歴史嫌いは、歴史というものを暗記科目としてしか提供できない日本の歴史教育が招いた結果なのです。
私は歴史を研究する者ですが、歴史学者ではありません。自分では歴史家と名乗っています。
では、いわゆる専門の歴史学者と歴史家である私は、どこが違うのでしょうか?
答えは簡単です。それは、歴史家である私の方が、専門家である歴史学者よりも、日本史というものを、いいえ、歴史そのものを、深く、広く理解しているということです。
にわかには信じがたいことだと思いますが、これは事実です。
なぜ歴史学者より私の方が「深く」「広い」のかというと、私は「専門」という枠にとらわれていないからです。
専門家というのは一見すると素晴らしく思いますが、歴史の場合は専門が足枷(あしかせ)となることがあります。なぜなら、自分が専門とする範囲のことは知っていても、その範疇(はんちゆう)を少しでも外れるとわからない、いわゆる「専門バカ」という落とし穴にはまってしまうからです。
歴史というのは、古代から連綿と続く人の営みです。その一部を詳しく見ただけでは全体像はわからないのです。
ここで言う専門の歴史学者とは、私が常々言ってきていることですが、第一に日本史の呪術的側面(宗教)の無視ないし軽視、第二に史料至上主義、第三に権威主義、に陥っている方々のことを指します。
さらに問題なのは「木を見て森を見ず」という諺(ことわざ)どおりの人々だということです。これは「小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ」(デジタル大辞泉)ですが、歴史学者は自分の専門だけにとらわれて日本史全体がどんな状態になっているのかをまったく見ようとしません。いや彼らのやり方では見えないのです。
私は日本史という巨大な森の全体像を知るために、『逆説の日本史』というシリーズにおいて、たった一人で日本通史を書いてきました。
そうして日本史の全体像がわかったとき、全体像を知るには他の世界を知ることが必要だということを知りました。つまり、世界史を知らなければ、日本史の本質はわからないということです。
これが、私が常々訴えてきた「日本の歴史学は視野が狭い」ということです。その「視野」とは、世界史を見ているか、ということですが、世界史を見ると言っても、ただ漫然と眺めるだけではダメです。世界と日本を「比較」し、世界の常識と日本の常識はどう違うのか、違いがわかったら、なぜ違うのか、そこまで突き詰めて考えることが必要です。
そういう意味で、高校の歴史教育に二〇二二年から新たに世界史の視点を組み込んだ「歴史総合」が導入されると知ったときは、少なからず期待を抱きました。
事実、『歴史総合』の教科書の前文には、期待させるようなことが書かれています。
現代の観点から歴史をみるとき、古い時代に比べ、より近い時代の歴史のほうが現代とより直接のかかわりをもつことは当然であるが、現代に近い時代というのは、古代に比べ、日本と世界のつながりが強くなってきた時代であり、現代の私たちのもつ社会的課題は、世界の歴史を知ることなしには、理解できない。
(『歴史総合 近代から現代へ』山川出版社、2022年4月発行)
現代に近い時代を学ぶことが、日本の社会課題の理解につながるという主張には疑問を感じますが、それでも、「世界の歴史を知ること」が、「日本を理解すること」につながるというのは、まさに私が長年訴え続けてきたことです。だから近代以降という少々偏った範囲ではあるものの、世界史と日本史の関わり合いという新たな視点が日本の歴史教育に導入されることを期待したのです。
でも結果は、残念としか言い様がないものでした。
高校の歴史カリキュラムによれば、「歴史総合」を必修科目とし、日本史(日本史探究)か世界史(世界史探究)のうち、興味のあるものを選択して学ぶというのですが、正直言って、これでは日本史も世界史も中途半端にしか学ぶことができないのではないかと思います。
何よりも残念だったのは、「世界の歴史を知る」と銘打っておきながら、そこには「比較」という視点が取り入れられていないことです。
これが何を意味しているのかというと、日本の歴史教育を主導する方々は、世界史と日本史を比較するとは、具体的にどういうことなのかを理解していない、ということです。
そこで本書では、歴史を理解する上で必要不可欠なのに、日本史教育に欠けている二つの「視点」をテーマにお話ししていきます。
その二つの視点とは、一つはすでに申し上げた「比較」です。
ひとくちに比較と言っても比べる対象によって、何に注目するのかは違ってきます。
世界史と日本史を比較する場合には、世界の常識と日本の常識で異なっている点を見つけ出し、なぜ日本と世界で常識が違うのか、その理由を考えることが大切です。
また、世界と日本という横軸での比較だけでなく、時間軸に基づいた縦軸での比較も重要です。
たとえば、織田信長は比叡山の焼き討ちをしたことで、宗教弾圧者として嫌われていますが、彼がなぜ比叡山を焼き討ちしたのか、その本当の意味や意義を知るためには、比叡山の焼き討ち以前と以後を比較し、何が変化したのかを見ていくことが必要なのです。
二つ目の視点は、私が長年にわたって言い続けていることですが、「宗教」です。
世界史では「宗教」を抜きにして歴史は語れないというのが常識です。しかし、日本の歴史学者は、この「宗教」という視点を歴史に持ち込むことを頑(かたく)なに拒否し続けています。だから、彼らには日本史が理解できないのです。
よく日本人は無宗教だと言う人がいますが、それは大きな間違いです。日本には固有の「日本教」とでも言うような宗教があり、日本人は誰しもが無意識のうちにその宗教を信奉しています。
日本教には、キリスト教の聖書のような教典はありませんが、日本人の行動と思想の積み重ねである日本史を丹念に見ていけば、その「無意識のうちに日本人を縛っている思想」、つまり宗教の実態が浮かび上がってきます。
本書では、全体を第1部「比較」と第2部「宗教」に分け、それぞれの視点を通した歴史の見方を、具体例を挙げながら解説していきます。
でも、お読みいただくとわかりますが、この二つの視点は完全に切り離して考えられるものではありません。なぜなら、世界と日本を比較することで日本人の宗教観がより鮮明になり、日本固有の宗教を知ることで、比較によって浮かび上がった違いが生じた理由が理解できるようになる、というように相互に深く関係しているものだからです。
つまり、どちらの視点が欠けても、歴史を深く知ることはできないのです。
おそらく、本書をお読みいただければ、なぜ私がこれほどまでに日本の歴史教育に強い憤りを感じているのか、おわかりいただけることと思います。
世界と比較し、時間軸で比較し、日本固有の宗教を知れば、日本史ほどユニークで面白い歴史はないのですから。
本書が、一人でも多くの方にとって、歴史の面白さを知るきっかけになることを切に祈っています。
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真・日本の歴史
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