大人の女には、道をはずれる自由も、堕落する自由もある――。7月3日に発売された『小泉今日子と岡崎京子』は、社会学者の米澤泉さんが読み解く、ふたりのキョウコと女性の生き方論です。カリアゲショートの規格外のアイドルだったキョンキョンこと、小泉今日子さんはその当時から女性の生き方について何を考えていたのでしょうか?
小泉今日子とよりよく生きる自由
アイドル時代から従来のアイドル像にとらわれず、カリアゲショートや個性的なファッションに身を包み、ものを言う・主張するアイドルとして「理想の彼女」から自由になった小泉今日子だが、当時からフェミニズム的なものは意識していたのだろうか。「アイドルらしさ」だけでなく、「女らしさ」からも確信犯的に逃れようと思っていたのだろうか。
シンディ・ローパーは「Girls Just Want To Have Fun」のPVを見て大好きになりました。
シスターフッド的なメッセージに胸がスカッとしたのかも。
ファッションも自由で誰にも媚びていなくて大好きだった。
(『ホントのコイズミさんYOUTH』42)
小泉は、10代の頃に憧れた女性として、自由で媚びない女たち、シンディ・ローパーとデボラ・ハリーを挙げている。特に、シンディ・ローパーについては、ファッションはもちろんシスターフッド的なメッセージに共鳴していたようだ。当時は、それがシスターフッドだという自覚はなかったとしても、女性たちの連帯というテーマは三姉妹の末っ子として女性に囲まれて育った小泉には、親しみやすいものだったのだろう。
より自覚的に、フェミニズム的なものを意識したのは、東大・駒場祭のミスコンテストにゲストとして出演した16歳の時である。
「女性差別」を訴えミスコンに反対する人々を目の当たりにして、小泉今日子は驚きとともに今までにない違和感を覚えたらしい。「なんだか、これはとても重要なことが起こっているぞ」と感じながらステージを務めたという(『週刊文春WOMAN』vol. 20 創刊5周年記念号2024)。それが、フェミニズム的なものに立ち会った最初の出来事である。
80年代前半、当時はまだフェミニズムという言葉も浸透していない、男女雇用機会均等法以前の時代である。そんな昭和末期、アイドル全盛期の「花の82年組」としてデビューしたばかりの16歳の小泉今日子が、すでにミスコンに違和感を覚えていたとは、意外に思うかもしれない。
しかし、これが小泉今日子の原点なのだ。この「違和感」が結果的にキョンキョンの原動力となり、シンディ・ローパーへの憧れへと、「理想の彼女」からの自由へと結びついたのだから。聖子ちゃんカットからカリアゲショートにし、自分の好きな衣装を身につける。あらゆるジャンルの曲を歌い、さまざまな役を演じ、表現者として新しい領域に挑戦し続ける。エッセイを通して自らの意見を率直に発信する。それは従来のアイドル像からの逃走であり闘争でもあったのだろう。
アイドル像からの自由を求めていた10代から20代にかけての小泉今日子は、それがフェミニズムであるという自覚はなくても、なんとなくフェミニズム的なものに惹かれ、共鳴していた。だからこそ、従来のアイドルらしさ、従来の女らしさ、そういったものに対して軽やかに否を突き付けていたのだ。それが結果的に型破りなアイドル、他の誰にも似ていない小泉今日子という評価につながっていったのである。
表現者としては、今までの「理想の彼女」的なアイドル像を壊し、自由になることに成功した小泉今日子だったが、プライベートな面においてもそうであったとは言いがたい。10代、20代の小泉今日子は、「なんてったってアイドル」「キョンキョン」として疾走し、新しい時代のオンナノコ像を見せつけていたものの、それはあくまでも表現者としてのイメージ上の姿であり、その実生活や生き方においてはまだ育ってきた昭和的な価値観を引きずっていたようだ。
小泉 そう、意外と古風でね。でもたぶん、私たちの世代って、まだそこに囚われてたんだよ。「女は結婚して一人前」みたいな価値観を植えつけられて育ったから。
(『小泉放談』245)
「キョンキョン」であっても、何もかも自由奔放に、というわけにはいかなかったのだ。
20代の頃の揺れ動く心情は、当時連載していたエッセイ「パンダのan・an」にも吐露されているが、30代を迎える直前に結婚したこともその一つの表われだろう。1990年代半ば、女性は30歳までに結婚しなければ、というムードが世間には漂っていた。それだけではない。結婚したら、仕事は辞めるべきという考えもまだ健在だった。「理想の彼女」から自由になった小泉今日子ですら、「理想の妻」からは簡単に逃れられなかったようなのだ。
結婚を機に「仕事を辞めた方がいいのかな」と思い、夫に相談したところ、「辞めない方がいい。絶対後悔する」と言われ、継続することになったと小泉は語っている。「辞める」という覚悟もなく、続けるという強い意志もなかった。
「仕事をやめる」と言ってはみるものの、反対されると「じゃあ、やめなくていいか」と、自信がなくなるところがあった。それは、「こういう人生が正解なんだろうな」と世間の常識に乗っかっていただけで、自分の中に確固たるものがなかったからなんですよね。
(『週刊文春WOMAN』vol.20創刊5周年記念号2024)
一人の女性としては、まだまだ保守的な生き方、家父長主義的なものに染まっていたと当時を振り返っている。
10代の頃からフェミニズム的なものに関心を持ち、シスターフッドに共鳴していた小泉今日子も、実生活では揺れ動きながら、手探り状態で歩んでいたことがわかるエピソードである。そういったこともあり、20代の頃は今に比べると楽しくなかったという。
実体験として、20代のときが苦しかったんですよね。比べて30代は楽しかったし、40代になったらもっと楽しくて、50代になった今も楽しさが増している感じです。たぶんそれって、年を重ねるごとに、頭で考えていることと行動や言葉が、どんどん仲良くなってくるから。思ったことがすぐ行動に移せたり、考えを言語化するときに昔よりも自由になっている気がする。
(『GINZA』2023年8月号)
年齢を重ねるにつれ楽しくなった理由として小泉が挙げているのが、「考えを言語化するときに昔よりも自由に」なったことである。そこには、20代から長年エッセイを書き続けたことと、30代になって書評を書くようになったことが影響しているだろう。特に、読売新聞の読書委員になってからは、読む本の幅も広がり、自分では手にとらなかったようなジャンルの本も読み、書評を書くようになった。『ピエタ』との出会いもその一つである。
また、女性の生き方やフェミニズムに関連する本も積極的に読み、考えを深めるようになった。そのことで、今までなんとなく感じていた違和感やもどかしい想いが言語化されるようになり、結果的に20代の頃より、よりよく生きられるようになったのではないだろうか。
30代、40代を通して、「大人女子」の旗手としてファッション誌で新しい女性像を具現化する一方で、フェミニズムの影響を受けた小泉今日子がエッセイや書評を通してその想いを発信するようになったということは重要である。つまり、今まであまり指摘されたことはないが、小泉今日子という存在を通して「大人女子」はフェミニズムと確実につながっていったのである。
上野千鶴子と湯山玲子の対談集『快楽上等!』の書評を書いたのは2013年、まもなく小泉が47歳になる時だった。
上野千鶴子さん一九四八年生まれの社会学者。湯山玲子さん一九六〇年生まれの著述家。ひと回り年齢の離れた女二人の対話は三・一一から始まり、恋愛、結婚、快楽、加齢など私にとって興味津々の議題ばかり。それらの議題について思った以上に赤裸々に語り合う頼もしい先輩方。二人の会話に参加している気分で、そういう事だったのかと何度も頷き、何度も痛い所を突かれ、最終的には頭の中がスカッとした。
(『小泉今日子書評集』198─199)
上野千鶴子とは、後に『GLOW』の連載「小泉放談」でも対談している。(2016年9月号)人生の先輩たちに話を聞き、50歳以降の生き方のヒントを示し、読者をナビゲートするのが「小泉放談」の目的である。フェミニズムの旗手として生きてきた先輩に、開口一番小泉は言う。
この連載を始めた頃、フェミニズムに対するイメージが若い頃と変わってきたというお話をしたことがあったんです(中略)。昔はともかく、今なら自分もフェミニストだと言えるんじゃないかって。
(『小泉放談』141)
「フェミニストであるということに対して、ためらう気持ちがおありだったのね。」と応じる上野に対し、小泉は答える。
でも、自分も社会に出て生きていく中で、自分が感じることと、フェミニストの方が考えることが、ちょっとずつ合ってきたという感覚がありました。そういう方たちの活動で、私たちの世代は今、仕事がしやすくなっているのかと。
(『小泉放談』141)
つまり、フェミニストたちのお陰で自分たちの世代はよりよく生きられるようになっていると言うのだ。そういう実感があるからこそ、50代を迎えた小泉今日子は、次世代への継承ということをしばしば口にするようになったのだろう。
自分自身が、第三波フェミニズムをはじめとする先輩たちに助けられたように後の世代につないでいきたい。その想いが、『GLOW』の連載をまとめた書籍『小泉放談』や舞台『ピエタ』につながったのである。「あとから来る人たちのために、ちょっとは道を開いておきたいな……と。」(『小泉放談』150)よりよく生きられるように。より自由に生きられるように。
10代、20代の小泉今日子は、アイドルとして、「理想の彼女」からの自由を求めてきた。30代、40代の小泉今日子は、「大人女子」としてよりよく生きる自由を求めてきた。
ここには二つの自由がある。すなわち、「何か」から解き放たれる自由と「何か」を志向し、実現する自由である。それは、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』(1941)で分類したように、「~からの自由」と「~への自由」であると言うこともできるだろう。
哲学者のアイザィア・バーリンは論文「二つの自由概念」(1958)において、それら二つの自由を消極的自由と積極的自由と解説した。飢餓や災害や暴力といった、場合によっては命の危険にさらされるような脅威から逃れる受動的・消極的な自由が「~からの自由・解放」であり、より高次な何かを実現するための主体的・積極的な自由が「~への自由・実現」であると定義づけたのである。
自らが行う選択を他人から妨げられない自由と自ら積極的に行動する自由。フロムやバーリンの自由論を踏まえて言うならば、10代、20代の小泉今日子は、アイドルという理想の彼女像から自由になるための、30代、40代の小泉今日子は従来の「大人の女性」に課せられていた良妻賢母規範や家父長主義的な生き方から自由になるための道を模索してきた。そして、同時に新たな女性像、自由な女性の生き方を求めて、その実現のためにも挑戦し続けてきたのである。それはつまり、消極的自由から積極的自由へと、メディアを通して、結果的に女性たちを導いてきたのだと言えるのではないだろうか。『ピエタ』の「むすめたち、よりよく生きよ」というメッセージは、小泉流に言うならば「女性たち、より自由に生きよ」ではないだろうか。
現在の活動を通して、小泉今日子は自分自身にも常に問いかけている。10代の、20代のあの頃よりもよりよく生きているだろうか。30代の、40代の自分よりも自由に生きているだろうかと。そして、未来の自分にエールを送っている。よりよく生きよ、より自由に生きよと。
来たるべき60代に向かって小泉今日子は、「新しいシニアライフを自分の手で作っていきたい」(「ハルメク365」2023年9月29日)という。40代の頃から、「老化は進化。相変わらず早く大人になりたいって思ってるし、前に進めることがうれしい。」(『GLOW』2013年12月号)と述べ、上野千鶴子との対談で「中年の星」になりたいと宣言した小泉今日子である。「エイジンググレイスフリープロジェクト」のアンバサダーとして、この先も人生を楽しむことが目標であり夢だという小泉が次に掲げるのが、老人のイメージや老いに対する価値観を変えることだ。
むすめたち、よりよく生きよ。女性たち、より自由に生きよ。小泉今日子なら、シスターフッドとエンパワメントの力に満ちた、新しいシニア女性像を、今までにない「女子の老後」を描いてくれるに違いない。
* * *
つづきは、『小泉今日子と岡崎京子』でお楽しみください。