ごはんにまつわる付加価値は女性性に結びつく
私がコンサルとして勤めているトルコの会社では、毎日午前11時に社長の秘書から出前のリンクが送られてきて、注文した昼ごはんは直接オフィスに届けられる。チームは全員キッチンスペースで食べるけど、食べ終わった後の容器やウェットティッシュの包み紙をテーブルから片付けてくれる人がいる。金融の人たちは自分で片付ける暇なんかないのだ。
ロンドンのスタートアップで働いていた時、同僚たちは家から食事を持参するか、日本のコンビニ弁当みたいな「ミールディール」と呼ばれる安く買えるランチセットをスーパーで買っていた。ほとんどの人はそれ以上ランチにお金も時間も使わなかった。お菓子を作るのが得意な同僚が手作りのシンプルなクッキーやブラウニーを時々持ってきてくれたけど、総じてランチはとても質素だった。
今回、私が10月に渡日するときに開催するする読書会で、高瀬隼子の『おいしいごはんが食べられますように』を取り上げることになった。この本を読むまで、今まで働いてきた会社における独特な「食事習慣」について深く考えたことがなかった。今回の話題本に選んだこの小説は、食事を切り口にし、あらゆる会社に存在する微妙な人間関係を巧妙に描写する。作家が描く世界はなかなかグロテスクだけど、同時にどこか普遍性がある。この普遍性と筆致に多くの読者が引き込まれる。
(この読書会はどなたでも参加できます。ぜひみなさんもいらしてください。お待ちしています!)
来年2月には英訳も出るよう。タイトルは直訳そのものズバリで「May You Have Delicious Meals」とされるらしいが、西洋の読者がこの作品をどのように受け止めるかがとても気になっている。
少なくとも私がこの5年間主な活動の場にしていたイギリスでは、会社で登場する食事はシンプルだし、何より日本ほど食事は文化的な意味を持っていない。イギリス人の奥さんは夫に弁当なんか作らないから特別なお弁当文化もないし、日本ほど同僚との飲み会文化も存在しないから「仕事仲間と一緒に食事をする」行為というか習慣というか、とにかく食事を通じて時間や空間を共有するということに特別な意味を置いていない。
唯一あるのは、紅茶文化。それも、最近では本当に貧乏な地方自治体では職員用の紅茶を買う予算をくれないため、社員がお金を出し合って一緒に買うらしい。
しかし、「おいしいごはんが食べられますように」で描かれている、職場における葛藤、人間関係の摩擦や「典型的なキャラ」はきっとイギリス人の読者にも通用するだろう。
例えば、支店長の「嫌なおじさん上司キャラ」はイギリスにもいくらでもいる。女性の主人公も「こんな人、うちの職場にいるな〜」と感じられるようなキャラだ。頑張り屋で自分の能力を認めてほしい押尾さん、そして体が弱くて残業が耐えられないけどその代わりにチームにおいしいスイーツを焼いてくる芦川さん。職場の人間模様がランチ風景を通じて描かれる。他の人ほど働かないのになぜかみんなに許されている芦川さんを、性格も目標も正反対の仕事人間押尾さんが恨む。
芦川さんと押尾さん。この二つの「極」(pole)の間の緊張感を、以下のような文章で見事に言い表している:
「誰でもみんな自分の働き方が正しいと思っているんだよね、と藤さんが言った。無理せずに帰る人も、人一倍頑張る人も、残業しない人もたくさんする人も、自分の仕事のあり方が正解だと思っているんだよ。押尾さんもそうでしょ、と言われて言葉に詰まる。」
全ての会社に、様々な働き方をする人がいる。押尾さんのような人もいれば、芦川さんのような人もいる。もしかしたら、働き方の相違は、会社が大きければ大きいほど実感できる。少人数のスタートアップや、会社の「カルチャー」がもっと濃い企業――例えばテック企業――では、主流の働き方、その会社が「正しい」と判断した働き方から乖離することは難しくて、そういう人は潰されていくか、その前に自分から会社を離れるんだと思う(よくも悪くも)。
しかし、「おいしいごはんが食べられますように」が描くのは働き方だけではない。働き方を通じて、もっと幅広くジェンダーを問いかける作品だと思う。体が弱くて、批判を受け止められない芦川さんは典型的な女性キャラを演じる(社員に怒鳴るおじさんのお客さんの話が紹介されるけど、そのようなミーティングを避けたい気持ちはわからなくもない)。そんな彼女だが、おいしい食べ物を通じて周りの人の世話をする、フェミニンな役割を演じると、自然に周りが彼女を守ってくれるようになる。
一方で、押尾さんはジェンダーから抜け出して、他の男性社員と同じぐらい仕事ができることを見せたい。だから同僚の二谷さんと飲みにいくとき、彼女はあまりおいしいごはんには興味がないように振る舞う。おいしいごはん、体にいいごはん、手作りのごはん、ごはんにまつわるそういう付加価値イメージは間違いなく女性性に紐づいている。
この二つの女性で誰が勝つか、スポイラーになるから言わない。しかし、食事の伝統のように、ジェンダーの伝統はなかなか変わらない。古い習慣はなかなか改まらない。
* * *
鈴木綾さんのはじめての本『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』も好評発売中です。
10月19日(土)鈴木綾×ひらりさ「おいしいごはんが食べられますように」読書会開催! はじめて綾さんが会場にいらっしゃいます
内容・申し込み方法は幻冬舎カルチャーのページをご覧ください
月が綺麗ですね 綾の倫敦日記
イギリスに住む30代女性が向き合う社会の矛盾と現実。そして幸福について。
- バックナンバー
-
- ランチが質素なイギリスの会社員も共感する...
- 結婚式に一人で出席し午前3時まで盛り上げ...
- 『brat』革命:チャーリーXCXが歌う...
- 「同意」の先にあるもの:『セックスする権...
- 「本の世界だから許される?」“女性への暴...
- 「会社での成長に限界を感じた」私の退職の...
- レオナルド・ディカプリオはなぜ若い女性と...
- 「OpenAIの研究者は日本オタク?」最...
- 「男性はより保守的」「女性はより進歩的」...
- 米英でベストセラー爆進中『イエローフェー...
- 「ベストセラー詩人はインスタグラムから」...
- ブリトニー・スピアーズが自伝で描く「セク...
- 「35歳の私が独身なのはおかしい?」いい...
- 「人生は予定どおり?」過去の自分から見つ...
- 「いつかに備えて」日本でも普及する“卵子...
- 「あの時、違う選択をしたら…」30代の同...
- 今年一番の高価な買い物は「30万円」の値...
- 結婚式の平均費用439万円(米)、339...
- 「日本のマスコミは誤解している」映画『オ...
- 『バービー』という“人形の長編広告”映画...
- もっと見る