10月23日(水)に発売された鯨井あめさんの新刊『白紙を歩く』より、陸上ばかりしていた風香が「なぜ読書に興味を持ったのか」について語るシーンをお届けします。(はじめから読みたい方はこちら)
* * *
わたしは尋ねる。「明戸さん、クラスは?」
タイピングが止まる。「何?」
「クラス」
「Aだけど」
A組は、普通科の文系クラスだ。教室棟の西端にある。クラスは西からアルファベット順に並んでいて、わたしのF組は東端。つまりAとFは、教室棟の端と端。生徒玄関の靴箱は離れているし、移動教室で使う渡り廊下や階段も別。そもそも学科が違うから、時間割や授業も被らない。
スポーツ科のF組は、同じスポーツ科のE組とだけクラス替えがある。合同授業もE組とだけだから、交友関係もその二クラスで収まりがちで、唯一の全校交流イベントである文化祭のときも、秋季大会や新人戦に集中している人が多い。わたしも去年はクラスの出し物に参加しなかった。
そういえば、蓼科先生が受け持っているのはDからFクラスだ。明戸さんのAクラスとは接点がないはず。
「蓼科先生と仲がいいの?」
「知り合い。あの人、司書だし、個人的にもちょっとつながりが」
「いいな」
「いいな? なんで?」
「蓼科先生が、小説に救われたって話をしていて、いいな、って思ったから」
春のこと。国語の授業で、蓼科先生が学生時代のことを話してくれた。そのとき零された言葉が、わたしのなかにこだましている。「現実に答えが見つからないときは、物語の世界に答えを探すのも、ひとつの方法です。虎になってしまう前に」─あれは何の授業だったかな。難しい文章だった気がする。
本を読むのは苦手だ。周囲にどれだけ勧められても、読めなかった。だからずっと、読書家に憧れている。クラスにひとりはいる、本を読んでばかりいる子。速読が得意で、難しい漢字の読み書きができる、物静かで思慮深い子。物語を楽しめないわたしは、そういう人をかっこいいなって思う。羨ましいな、って。
「明戸さんって、本のこと、詳しいんだね。『走れメロス』の内容、憶えてるの?」
「当然」
「面白い?」
「太宰の作品は、面白いとか面白くないとかじゃないから。すごい、だから。筆致と表現力で殴ってくるタイプの作家だから」
「そうなんだ」
眼鏡越しに、ジロ、と睨まれた。「これ、何の時間?」
「よかったら、おすすめの小説を教えてくれない? わたし、小説のこと詳しくなくて、文章を読むの苦手で、けど読書したいんだ」
「なんで?」
「走る意味が、わからなくなっちゃって」
「走ることに意味なんかあるの?」
「なかったから、困ってる」
「どういうこと?」
故障をして、休部してから、クラスで進路希望調査が行われた。スポーツ推薦を使うか、一般入試にするか、この先も走り続けるか、高校いっぱいで辞めるか、そのうち決めなくちゃいけないんだって実感した。そして気づいてしまった。
「わたし、ずっと、無心で走ってきたんだ。何も考えず、陸上を続けてきた。だから、わたしの内側のどこにも、走る理由がない。でも、走りたくない理由もないから、どうしたらいいんだろうって悩んでる」
「変な悩み。その答えが、小説のなかにあるかもしれない、って?」明戸さんは頬杖をついて、じっとわたしを見ている。見定めるような目つきだ。「読み始めたら寝ちゃうくらい、つまんないのに?」
「つまんないわけじゃないと思う。慣れてないだけで。小説って、きっとすごいんだろうなって、思うから」
「すごい?」明戸さんの頬杖をついた手の指先が、頬をとんとんと叩いている。「どういうふうに?」
「本を読んでる人って、賢いでしょ。読解力がある。考え方が柔軟っていうか、達観してるっていうか、悟ってる感じがする。視野が広い」
「ふうん……あたしはね、物語は人を救うって信じてるんだ」にやり、と明戸さんの口角が上がった。「だから、悩める定本さんが読書を試みているのは、最適解だと思う。小説は万能だから」
「万能」
「明日、ここに来てよ。『走れメロス』の文庫本、貸してあげる。でもどうして初手で全集に行っちゃったのかな。選書としては大間違いだよね。本の選び方を知ってたら、そうはならないでしょ。学校教育のせいだよ。図書室が機能してないから、間違いが起こる。生徒が読みたい本にスムーズにたどり着けるようにすべきだよね。図書委員が働くべきだし、専任の司書も雇うべきだよ。コストカットで必要な部分を削ぎ落としてミスを誘導するなんて、却って税金の無駄遣いだと思わない?」
つらつらと言われて、お礼を言いかけていたわたしは面食らった。
「明戸さんって、すごく上から目線だね」
彼女はぎょっとした。目線を下げて、気まずそうに顔を逸らして、口をもごもごとさせる。しまった。傷つけちゃった。わたしがごめんと言う前に、ポケットのスマホが震えた。取り出すと、親からだ。あと五分で着くらしい。
「そろそろ行かなきゃ。迎えだ」
「へえ、どっかのご令嬢なの?」
「膝を痛めてて、これから病院」
校門の前で車を長時間待たせるわけにはいかない。病院の予約もある。またね、と告げた。
生徒玄関に着いてから、謝り損ねたことに気づく。
* * *
類を傷つける言葉をつい口走ってしまった風香。
明日は風香が類に謝るシーンをお届けします。果たして類は許してくれるのでしょうか。早く続きが読みたい方はこちらをチェック
白紙を歩く
天才ランナーと小説家志望。人生の分岐点で交差する2人の女子高生の友情物語。
ただ、走っていた。ただ、書いていた。君に出会うまでは――。
立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。