夫の社員旅行に連れて行ってもらったことがある。夫はフリーランスの映画製作業だが、いつも仕事をしている会社が、金沢に家族まで招待してくださったのである。
家で名前をよく聞いている職場の人たちと初めて挨拶ができ、同じ電車に乗り、私は「奥さん」と呼ばれ続ける、いろんな意味で非日常の体験だった。
この金沢旅で、私は忘れられぬ出会いをした。
ウイスキーである。あの日、あの街で出会っていなかったら、今の私の人生はもう少しだけ違っていたものになっていたと思う。ウイスキーの愉しみを知ったことで、人生の味わいも増した。大げさでなく、本当に。
団体旅行なので、行程は大まかには決まっていた。最たる目的は、会社とお付き合いのある人の個展だ。そのほかに県立美術館、兼六園、茶屋街など。要所要所の集合時間はざっくり決まっているが、ゆったりしたスケジュールで合間に自由行動も多い。
初めて話す人ばかりで緊張していた私は、街での夕食に繰り出す前にひと息入れたくなった。
ホテルでゴロゴロしたがる夫を急き立て、散歩に出かける。
あてもなく、夕暮れの街をそぞろ歩いた。十数分のところに、見るからに星が三つ四つついていそうな、クラシカルで立派なホテルがあった。
ふらりと立ち寄ってみると、ラウンジにバーカウンターがあり、蝶ネクタイをしたバーテンダーと目が合った。
ボトルを磨く手を止め、「どうぞ」と眼の前のカウンター席へ導かれた。
まだ18時前だったと思う。エレベーターからは、ときおり結婚披露宴帰りの若い男女や留め袖姿の女性がやや上気した面持ちで出てくる。
「今日はお式がふたつありまして賑やかだったんですが、さきほどお客様がひいたところで。いいときにいらっしゃいました。この時間帯は落ち着いているんですよ」
オーセンティックな格調高いバーの雰囲気に戸惑っている私たちに、穏やかに語りかける。
私は思い切って尋ねた。
「これから食事なので、コーヒーでもいいですか」
「もちろんです」
ティーラウンジとバーを兼ねているらしい。
厚い一枚板のカウンターも、精緻なカットが入ったキラキラ輝くバカラのグラスも、重厚な琥珀や漆黒のボトルが並ぶ後ろの棚──バックバーという呼称はのちに知った──も、じっくり見るのは初めてだ。こんな本格的なバーは、かつて目上の人に連れて行ってもらった数える程度で、自分から入ったことがない。同い年の夫も、身の丈に合わないところに来てしまったなと、落ち着かない顔をしていた。ちょうど下の子が中学生になり、育児の手が離れた頃だった。
客はほかにいない。
バーテンダーは、東京から来たという観光客まるだしの私達に、気さくに応じる。
「それはどんなお酒なんですか」と、私は磨いているボトルについて聞いた。
「シェリー樽で熟成したシングルモルトウイスキーになります」
似たようなラベルデザインで、年数の違うものが三、四本。彼はふっと微笑み、「味見してみますか?」と言った。遠慮気味の夫を横目に、私はあつかましく目を輝かして即答した。わ、いいんですか、嬉しい。
小指ほどのショットグラスに少しずつ注ぎ、三つ並べる。
「あ、でも……」
大人の流儀がわからず、急にお代を払わなくていいのかと気になりだした。こちらの心を読んだかのように彼が言う。
「テイスティングですので。ウイスキーファンが増えるのは私も嬉しいですし。どうぞ。それぞれまったく違う味で、驚かれるはずです」
お代はいりません、という意をなんてスマートに言うんだろうと、しびれた。
そっと、小さなグラスを口に近づけると、ふわあっと鼻腔から甘く重い香りが広がった。
とろりとまろやかな液体が舌先に触れる。全くウイスキーの知識がなかったが、素人でも上等なランクのものだとわかった。
遠くで薪が燃えているような、いぶした香りの熱いものがゆっくりと気道をとおって全身に沁みていく。なんていい香りなんだろう。こんな微量の液体が、こんなにも複雑で強く豊かな香りを持っていることに驚いた。
バーテンダーは手を動かしながら、しかし眼差しは興味津々で、私の言葉を待っている。初心者が知ったかぶりをしたり、気取ったりしてもしょうがない。ひと口含んで受けた衝撃を、最初に感じたまま言葉にした。
「チョコレートみたい」
「そう、そうなんです。それがシェリーカスクの特徴です」と目を細めて、彼は頷いた。
「ほのかに甘みを感じるでしょう。遠くで磯の香りやスモーキーで炙ったような香りも」と、自分が褒められたように嬉しそうだ。この人はウイスキーが根っから好きなんだなと思った。
一杯目がどれだったか、当時の私には銘柄がわからないが、そのほかにラフロイグかボウモアのボトルがあった。
彼はこちらの会話のペースを読みながら、合間にぽつぽつと、シングルモルト、ブレンデッドモルト、産地や原材料によるウイスキーの違いを説明してくれた。
「うちは富山の日本料理の板さんが、お給料が出ると、休みにとっておきのウイスキーを飲みに来るんですよ」と言ったときの、誇りに満ちた笑顔がとくに忘れられない。食のプロたちは、はるばるここにやってきて大事に一、二杯飲んで、帰ってゆくという。
大人の世界には、こんな遊びのたしなみがあるのかと印象深く思った。
小一時間ほどして私達は、夕食のために席を立った。代金はコーヒー2杯だけだった。
「いい時間にいらっしゃれてよかったですね」と、もう一度彼が言った。
「夕方の旅、夜の旅」でも書いたが、バーが忙しくなる前のひとときは、準備をしながら、客とバーテンダーがゆっくり会話を楽しめる時間でもある。
おそらく誰にも彼にもこんなふうに、テイスティングやウイスキー講座をしているわけではないだろう。観光客だと最初に告げているので、常連にもなるわけでもない。
どう振り返っても、彼は心底ウイスキーを愛していて、誰かに語りたい、魅力を伝えたいという純粋な思いだけで、ああした気がする。シェリー樽のチョコレートのような甘みとピート香が絶妙に混じり合ったバラスの良い味わいを、ウイスキー初心者が飲んだら、どんなに心動かされるか。衝撃を受けるのか。興味津々で。
旅先の大きなホテルにも、エアポケットのようにそんな人間くさいやりとりを楽しめる隙間時間がある。
以来、私はウイスキーにどっぷりはまってしまい、東京でも暇ができるとあちこちのバーの重い扉を押すようになった。
ちなみに愛用のマドラーは、山崎蒸溜所で買ったものだ。いつか、山崎に一緒に行ったウイスキー好きの親友と、アイラの蒸留所を旅するのが夢である。
近江市場でおいしい寿司を、茶屋街ではチーズケーキを、美術館でたっぷりアートを堪能し、楽しかったことがたくさんあったのに、金沢というと最初に思い出すのがあの夕暮れ時のバーの、琥珀の香りと味わいだ。
行程表に入っていないので、ホテルもバーの名もわからない。13年前とはいえ、そんなはずはあるまいとグーグルマップを睨むのだが、どうしてもわからない。夫もうっすらとしか覚えていないという。
小一時間のこたびは、幻だったんだろうか。あのときだって、ウイスキーの価格は上がり始めていたはずだ。初心者にシェリーカスクをふるまった彼のはからいが、金沢旅の記憶に、より豊かな香りを添えている。
ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~
早朝の喫茶店や、思い立って日帰りで出かけた海のまち、器を求めて少し遠くまで足を延ばした日曜日。「いつも」のちょっと外に出かけることは、人生を豊かにしてくれる。そんな記憶を綴った珠玉の旅エッセイ。