永平寺で修行をつんだあと、現在、広島の禅寺で副住職を務め、精進料理のブログ「禅僧の台所」も人気の吉村昇洋さんが、書籍『心が疲れたらお粥を食べなさい』を刊行いたしました。禅的食生活の心得を説く本書から一部を抜粋してお届けします。(写真:中尾俊之)
執着心はただの思いにすぎない
少し遅い昼休憩。ペコペコになったお腹を満たすため、同僚と食事に出かける。入ったお店で、同じメニューを注文。しばらくして運ばれてきたものを見ると、自分の好物が片方の器にだけ少し多めに盛られている。しかも、その器が同僚に渡り、心の片隅で“同じ料金を払っているのに……”と、どこか釈然としない気分になる。
皆さんはこんな経験をしたことがないでしょうか?
子どもの頃であれば、平然と不満を訴えるところでしょう。しかし、大人になってまでそんなことで文句を言っていると、度量の小さい人間のように周りから思われるのではないかと考えてしまうので、おくびにも出さないようにすると思いますが、案外心の中で引っ掛かってしまうものです。それはなぜかというと、人間は“損をする”ことに過剰に反応する生き物だからです。
これに関して、認知心理学や学習心理学の概念を経済学に取り入れた“行動経済学”という比較的新しい学問によって、研究がなされています。その中で損失回避性、つまり「利得と損失であれば、損失の方を2~2・5倍過大評価する」という特徴が人にはあると言われていますが、感覚的に何となく分かるような気がします。たしかに自分のことを考えても、何かを選ぶとき、利益を得ることよりも損をしないようにすることの方に注意が向きやすいように感じます。
ですので、冒頭の例に関しても、心の中では、“得にならない”のではなく、“損をしたくない”という思いの方が強いということなのでしょう。しかし、こんな風に“他人よりも損をしたくない”という思いを抱いて、実際に損をしないように食事にありついたとして、はたして食事を美味しく食べられるものなのでしょうか?
最近、いろんな人から「物質に満足する生活はもうこりごり」といった話を聞きます。生活をシンプルにするため、整理術や断捨離などが注目され、意識的に物に囲まれない生活を実践する人々も見られるようになりました。簡単に言えば、物への執着から離れるということなのでしょう。損をしたくないという感情も、まさにこの執着心から生じているわけですから、それを何とかすれば解決するはずです。
例えば、電車で座席に座っていて、目の前にご老人が立っておられたとします。いつもとは限りませんが、そのときはたまたま“座席をゆずろうかな”という気持ちになり、席をゆずります。そうすると、心が少し楽になったり、よいことをしたなと嬉しい気持ちになったりします。自ら席を失って実質的には損をしているにもかかわらず、温かな体験として記憶されるわけです。しかし、このとき隣に自分よりも若い人が座っていたとしたらどうでしょう?
おそらく、その人に対して「このご老人に席をゆずればいいのに!」と心の中で思うのではないでしょうか。このように、第三者が介在するなど状況の文脈が異なった途端、相対的に損得勘定をしてしまい、執着心がわいてくるのです。
ところが、どんな状況であったとしても、執着心から離れる方法はあります。それは、目の前の事象をひとつひとつ丁寧に扱うことです。執着心はただの思いですから、事象とそれに付随する思いを分けて捉え、自分にとってどのように機能しているのかを把握しましょう。もしかすると、別のことで代用がきくかもしれません。そうなれば、大して執着するようなことでもなかったと気づくでしょう。そして、そういう態度をとり続けていれば、相対的な損得ではなく、自分にとって必要な最低限の量や質というものも分かってきます。この段階までくれば、多少の損得で心を惑わされることはないですし、他者にゆずっても、痛くもかゆくもありません。
とはいっても、この境地に至るのはなかなか難しいものです。そこでオススメしたいのが、「多少の利であれば、気持ちよく他人にゆずってしまう」という方法です。これは、所有欲を手放す訓練でもあります。ですので、自分の気持ちがどうであれ、関係ありません。そこはドライに実践するのです。
例えば、形のきれいなドーナツと崩れたドーナツがあれば、きれいな方を他人に渡し、渡した瞬間に未練も一緒に手放して自分のドーナツと向き合うということです。小さなことですが、こういった経験を積み重ねるうちに、自分を苦しめる所有欲から少しずつ解放されていくことでしょう。