きっかけは友人の何気ないひと言だった。「ここの朝ごはんって、すっごく美味しいんだって。宿泊者じゃないと食べられないんだけどね」。雨上がりの夕暮れ。見上げた先には白い石飾りのアーチ窓が連なる赤煉瓦の駅舎。そういえば……。川端康成の「女であること」の一説が頭をよぎった。「思いがけぬところに、ホテルの部屋があるものだ。乗車口のドオムの裾が八角になって、それはみんな三角の客室の窓である」。1915年東京駅丸の内駅舎に開業した重要文化財。日本近代建築の父にして赤煉瓦の魔術師、辰野金吾が手がけた駅ナカホテル。中は、いったいどんな造りになっているんだろう。私の中のホテルスイッチが「パチン」と入った。電車でわずか10分のプチトリップ。でも、ひとたび足を踏み入れれば、日常とはひと味もふた味も違う景色が広がっているような気がした。
……あれから1年あまり。東京ステーションホテルという白地図をひとつまたひとつ塗りつぶすように、いくつかの客室に泊まってみた。カーテンを開けるとドームレリーフが間近にあったり、駅舎の赤煉瓦がデスクスペースのインテリアとして使われていたり、いずれも唯一無二の世界。中でも印象に残っているのが、メゾネットタイプの客室だ。ドアをあけると斜めの天井に沿ったヨーロピアンクラシカルな階段! はてしなく高い天窓がいとをかし。1階はリビング、2階がベッドルーム。何度も階段を上り下りしては段数を数えてみたり、天窓についたシェードをリモコンで開閉してはニヤニヤしてみたり。子供の頃に読んだ「赤毛のアン」や「小公女」のページをめくっているような屋根裏体験が愉しめる。
先日は「LIBERTY」とコラボレーションした客室にも泊まった。自分の部屋をこの英国老舗ブランドの意匠で統一するなんて夢のまた夢。だけど、ここでは、その夢が現実となる。滞在したのはモーブピンクとシルバーグレーを基調とした「HERA」。浮世絵から着想を得た壁紙とカーテン、繊細な羽根模様のソファやクッションは、この客室のためだけにつくられたオリジナル。絨毯も室内の色味にあわせて特別に織りあげられ、ホワイトグレーのモールディングによく馴染む。江戸のモダニズムと英国の伝統の掛けあわせは、東京でもロンドンでもない、至福の空間を生み出した。縦長の大きな窓から差し込む陽ざしとファブリックも麗しく調和する。光の角度で異なる色味にきらめく貝殻模様のクッションの手触りはヴェルベットのごとく。ソファに身をあずけ、クッションを撫でているだけで、心がほろほろとろけていく。
ひとつひとつ異なる表情を見せる客室をレールのようにつないでいるのが全長335メートルの廊下だ。まっすぐに伸びたその直線美だけでも歩くに値するが、東京駅や鉄道、東京ステーションホテルにまつわる写真や絵画など多くのアートワークが飾られていて、さながら美術館の趣き。廊下の両端――丸の内北口と南口の真上にあたるアーカイブバルコニーではドームレリーフを目の高さで眺められ、装飾のディテールがよくわかる。ドーム中央にはクレマチスの花飾りが施されている。花言葉は「旅人の喜び」ですって。この意匠はホテル内にも散りばめられていて、照明や床、扉付近を探しながら歩くのもまた愉し。
何度行き来しても飽きないのが、二階の廊下。松本清張が常泊した209号(現2033号室)の前には「点と線」の第一回連載と、物語の鍵を握るトリック「空白の4分間」のヒントとなった「特急あさかぜ号」の時刻表の複製が飾られている。さらに進むと、眼下に丸の内中央口改札が! よく磨かれた分厚いガラスに顔を近づけると、発車ベル、駅のざわめき、駅特有の電子音やアナウンスまでもが聴こえてきそうだ。改札口はすぐそこなのに、窓の外で繰り返されている日常が、物語のように思えてくる。この景色に着想を得て松本清張は、鉄道ミステリーを紡ぎだした。そんな発想力は自分にはないが、ここ東京ステーションホテルが物語の生まれる場所だということはわかる。
長い廊下を曲がって、また曲がって、しばらく行くと、物語に出てきそうな優美な階段につきあたる。その先にあるのがゲストラウンジ「アトリウム」だ。丸の内駅舎を正面から見ると、中央に台形の屋根がある。その屋根裏にあたるこの空間、高い天窓から朝の澄んだ光が降り注ぐ。そう。憧れの朝食ブッフェの始まりだ。中央に食事スペース、両サイドに和洋や季節限定の一皿、シャルキュトリ、スープ、サラダ、パン、デザートと100種類以上の朝食アイテムがずらりと並ぶ。特製スムージーを飲み、シェフが目の前で焼いてくれたふわふわの黄金色のオムレツを口に運ぶときの幸福感といったら! さらには焼き立てのパンの香ばしさ、温かいスープや餡バターの香りの優しさ……。自然光が照らし出す朝食は、きょうもつつがなく一日を始められるという安心感を与えてくれる。
朝ごはんを食べ終えたら、ふたたびマイルームへ。レールのような廊下を歩きながら、東京ステーションホテルでの滞在を振り返るひとときがとても好きだ。「……そうだ、今度は行幸通りの銀杏が黄金色に染まった頃、パレスビューの客室に泊まろう。朝散歩のあとはアトリウムでエッグべネディクトを注文しようっと」
そう、次の滞在もすでに始まっている。
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暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。










