2018年8月、東京五輪プレマラソン中に自爆テロが発生する。
新開発の人工血液と、連続する不審死の関連は――。
輸血用血液不足の実態や血液製剤の最新研究も盛り込み、科学の進歩と人の生き様を描く慟哭必至の医療ミステリ小説『ゴールデン・ブラッド』(内藤了・著)。無料試し読み・第1回をお届けします。
父親は、難病と闘う我が子を救えるのか――。
* * *
<<<プロローグ>>>
ビルの隙間に、ぽっ、ぽっ、と遠く火を散らし、次いで夜空に湧き出すように、赤々と大輪の花火が咲いた。わずかに遅れて音が鳴り、その振動で窓ガラスが震える。
それを見て少年は目を輝かせた。
「お父さん、見て、花火。この部屋からは花火が見えるよ」
ベッドの脇に跪(ひざまず)いて、少年と同じ目の高さから窓を見やれば、ビル群の縁が金色に光る。
空調の効いた個室の窓が、花火の振動でまた震えた。
少年が今朝までいた四人部屋はナースステーション裏の安価な病室で、窓から見えるものといえば隣接する病棟の裏側と、ベランダ花壇に植えっぱなしの常緑樹ばかりだった。弱り切った体では立ち上がることもままならず、少年は遠い花火の音を聞くたび、
「どこかお祭りなんだね。いいなあ」
と、諦めた顔で呟(つぶやい)ていた。
その時とまったく同じ言葉を、今は嬉しくてならないといった様子で繰り返す。枕に沈んだ小さい頭に手を置いて、父親は息子の髪の感触を味わった。痩せた体に細いチューブがつながって、点滴スタンドに吊るされた液体が、一滴、また一滴と血管の中に消えていく。
窓辺に腰掛けている妻の視線が、静かに、問うように、こちらを向いた。
「あ、また。きれいだね」
一心に花火を眺める息子の頭上で、中年を過ぎた両親は視線を交わす。
こんな高価な病室に移って、あなた、本当に大丈夫なんですか。
妻が瞳で訊いてくる。お金の苦労と、心労と、懸命に張り詰めていた想いが目の周りにしみついて、いつの間にこんなに老け込んだのかと、夫は妻を哀れに思う。花火は次々に空を焼いて、高層ビルのシルエットが色とりどりに縁取られ、そのたびに、小さな息子は溜息をついた。
「すごいね、このお部屋。花火が見えるって知ってたら、恵利(えり)姉ちゃんを呼んだのになあ。恵利姉ちゃん、花火が二番目に好きなんだって。それでね、一番目は何なのか、ちっとも教えてくれないんだよ」
言葉を切って唐突に振り向いた息子の瞳が、あまりに黒々と澄んでいたので、父親は胸を衝かれた。
「お父さん、ありがとう」
急にどうしたんだと訊く前に、息子は続けて、「ごめんなさい」と瞼(まぶた)を伏せた。
「何をあやまる?」
「ぼくが病気でごめんなさい。たくさんお金を使わせちゃってごめんなさい。だからお父さんとお母さんは、いっぱい働かなくちゃならなくて……このお部屋……高いんだよね?」
両親はまた視線を交わした。
闘病生活が長い息子は、様々な情報を耳で得る。トイレから遠い病室にいるのが退院間近の人たちだとか、院内演奏会に来るボランティアは、大切な誰かをこの病院で救ってもらった人なのだとか、個室病棟の入院費は、とても高価だということも。
互いに結婚が遅かったこともあり、待ち望んで授かった一人息子だ。親のひいき目でなく、利発で心の優しい子でもある。椅子から身を乗り出して、妻は息子の腕をさすった。細い腕には無数の痣(あざ)ができていて、関節は腫れ、四肢は冷たく、反して顔は熱をもって苦しげだ。
「あやまることなんか、なにもない」
父親は本心からそう言った。
「おまえが生まれてきてくれて、お父さんとお母さんは、本当に、本当に、幸せなんだ。それに、もうじき病気は治るよ。ちゃんと手術を終えたらね、そりゃ、少しはリハビリが必要かもしれないけれど、きっと元気になれるから。先生も約束してくれたろう? 大丈夫、大丈夫だ。そうしたら、もう毎日注射することもないし、運動だって、好きなだけやれる」
「ドッジボールも?」
「そうさ」
「野球も、サッカーも?」
「野球も、サッカーも、スキーもだ」
少年は熱っぽい顔に笑みを浮かべた。
「治ったら、最初にお父さんとキャッチボールする」
父親は幼気(いたいけ)な手に額を擦り付けると、しばらくしてから顔を上げ、不器用に口角を上げて微笑(ほほえ)んでみせた。
「そうだな。やろう。キャッチボールを、一日中」
「うん。約束だよ」
「約束だ」
小さな小指に自分の皺(しわ)びた小指をかけて、指切りげんまんと振る前に、彼は、二つの小指をもう片方の手で覆った。絡み合う約束のかたちを隠すかのように。
「さあ、もう寝なさい。疲れてしまうから。お父さんもな、とても大切な仕事があって……でも、おまえの手術の日には」
彼はそこで唾を飲み、息子の頭に手を置いた。天井を見上げて息を吸う。
「手術の日には戻って来るから。お母さんや、先生や、看護師さんの言うことをよく聞いて、ちゃんと元気でいるんだよ? 手術は簡単で、痛くないし」
「うん。ぼく、平気だよ。ねえ、恵利姉ちゃんをここへ呼んでいい?」
恵利姉ちゃんと息子が言うのは、院内ボランティアの美容師のことだ。息子は彼女になついていて、ベッドを下りられる日は理容室まで探しに通う。初恋なのかもしれないと、父親は思う。
「いいよ、もちろん」
だから優しくそう告げた。
「また花火が上がればいいのにね。恵利姉ちゃんも、一緒に見れたらいいのにね」
「そうだな」
そろそろ消灯時間だからと立ち上がると、息子の手がすがりついてきた。
「お父さん。おやすみなさい」
「おやすみ知希(ともき)」
心を込めてそう言った。
窓の外ではまだ花火が上がっていて、息子の顔に不安の色は微塵もない。わずか六歳。それでも彼は、病との闘いに勝ってみせるという顔でいる。父親は小さな手を握り、
「じゃあな」
と言って、踵(きびす)を返した。病室を出る彼を妻が追う。廊下には歯ブラシを咥(くわ)えたままの患者や、消灯のチェックに向かう看護師たちの姿があって、それを見ると妻は夫の腕にすがりながら、廊下の隅まで引いていった。
「あなた、本当に……」
「心配いらない」
患者を一人やり過ごし、彼も妻の手を取った。
「治療費は払ってあるし、個室の費用も心配ない。知希は被験者第一号で、費用は病院が負担してくれることになっているから、追加の治療費も掛からない。先生と話はついている」
「話はついているって」
夫はこくりと頷いた。
「大丈夫なの? ほんとうに」
本当に大丈夫だと、そう信じる以外に何ができるというのだろう。度重なる治療に息子の体は悲鳴を上げて、あらゆる薬剤に対して抗体を作るようになってしまった。薬剤と抗体の闘いは続き、このままでは、命すら危ないというのに。
「知希は助かる。先生を信じなさい」
諭すように言うと、妻は祈りのかたちに両手を組んで、頷いた。
「私たちはラッキーだった。もう、他に打つ手はないんだから」
「そうね。ええ、そうですよね」
「手術は必ず成功するし、知希だけじゃなく、たくさんの患者が助かるよ。きっとそうなる。今の医学は、とても進んでいるんだから」
廊下の薄暗い片隅で、妻はぶるんと身震いをした。遠い花火の振動が、窓ガラスを揺らし続けている。この場所から花火は見えず、花火よりもずっと毒々しい街の明かりが、粉を蒔(ま)いたように点滅している。
治療費と、見舞いの時間と、家のことと、夫のことと、両親の介護と、自分の仕事と……あまりに長い闘いの日々にも終わりがあると信じられずに、彼女は戸惑っているのだった。
「それじゃな、時子」
夫は妻を名前で呼んだ。
『お母さん』でなく、名前で呼ばれたのは何年ぶりのことだろうか。
「知希を頼む」
いたわるようにその手をさすって、夫は静かに、不器用に笑った。温かい微笑みだった。
「出張で数日留守になるけど、連絡するから」
「はい、あなた……おやすみなさい」
夫の手がゆっくり離れ、その手が軽く上げられて、踵が返され、薄い背中が向けられて、彼は廊下を去って行く。いつの間にか猫背が進み、後頭部に白髪が増えて、足を引きずる侘(わび)しい姿。その後ろ姿を見送りながら、なぜだか妻は、無性に夫を恋しく思った。
ナースステーションへ頭を下げてエレベーターを目指していくと、ちょうど開いたエレベーターから医師が降りてきた。入れ違いに乗ることなく、父親は立ち止まって医師を待つ。
向こうもこちらを認めたらしく、歩く速度を幾分か緩めた。
「どうも、先生。知希のことは、どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げると、医師は爽やかに笑ってみせた。
「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。後のことはお任せ下さい。それよりも」
「わかっています」
九十度近くも腰を折り、一心に床を見つめて父親は言った。
また一台エレベーターが来て、扉が開き、患者がロビーへ降りてくる。
父親が頭を上げたとき、医師はもういなかった。ビリビリと空気が震えて、ロビーの窓に光が映る。立ったままスターマインを見送ると、彼はエレベーターに背を向けて、薄暗い階段を下りて行った。
* * *
物語は、徐々に動き出す。第2回は10月24日(火)公開予定です。
ゴールデン・ブラッド
2018年、東京五輪プレマラソンで自爆テロが発生した。現場では新開発の人工血液が使用され多くの命が救われるが数日後、輸血を受けた患者や開発関係者が次々と変死を遂げる――。血液不足の実態と人工血液製剤の最新研究を盛り込んだ、小説『ゴールデン・ブラッド』(内藤了・著)。累計65万部を超えた「藤堂比奈子」シリーズ著者が初めて挑んだ医療ミステリの冒頭を全5回に分けて無料公開します。