好書好日「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題の清繭子さん、初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』刊行記念の特設ページです。
本編より、坂口健太郎に似た、仮名・鴨との切ない(?)恋バナをお届けします。仮名の由来が面白すぎます!
* * *
元カレが坂口健太郎に似ていてね、
ある時、神田川沿いの低層マンションの二階、角部屋に住んでいた。四月になると、ベランダに差し掛かった桜が咲き乱れ、家の中からお花見できる素晴らしい家だった。当時、年下の男の子と付き合っていた。名前を仮に鴨としよう。
鴨は私に出会うまで一冊も小説を読んだことがない理系人間で、「俺でも読めそうなのある?」と聞かれたので、いろいろ考えて伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』を差し出した。すると、鴨はその本をじっと見つめて、おもむろに「鴨」を指さし、「これ、なんて読むの?」と聞いた。自分を取り繕うことのない、とにかく可愛い人だった。
鴨は坂口健太郎に似ていて、めちゃくちゃタイプだった。私からのアプローチで交際が始まった。鴨は自分の見た目がいいことをちゃんとわかっていたが、とても臆病で、自信がなかった。酔っ払うと、涙を流しながら謝るという癖があった。優しく、穏やかで、面白く、美しい顔をしていて、ものすごく自慢の恋人だったのに、どれだけ私がそう言ってもダメだった。お酒を飲むとまた泣いた。何度目かの涙のあと、鴨はその癖のわけを打ち明けてくれた。
私が全部治してあげる。私と一緒にいれば、絶対だいじょうぶ。
今こう書くと呪いの言葉みたいだけれど、そのときは二人ともその呪いに気づかずに、ソファに並んで座っては、私は彼の大きな背中をさすり、彼は可愛くさすられていた。ソファは掃き出し窓に向かうように置いてあって、窓の外にはいつも桜があった。
だんだん鴨の泣き上戸にも慣れてきて、時々、その泣き顔を可愛いなあと思いながら、私は彼の歯を磨いてあげた。酔っ払って泣いた後はいつも寝てしまうからだ。鴨はべそべそ泣きながら素直に口を開けて、磨かれていた。かわいそう、という文字を打つと「可愛そう」と誤変換されることがある。そのたびに私は、あの歯磨きされていた鴨を思い出す。
付き合ってもうすぐ三年という頃、鴨は「好きな子ができた」と言って私を振った。私は持てる全ての言語能力を駆使して彼を引き止めたが、戻ってこないことはわかっていた。ずいぶん前から彼はお酒を飲んでも泣かなくなっていた。
しばらくして私は突然、道で吐いた。病院に行ったら胃腸炎だと言われた。ウイルス性と診断されたのに、「ストレス性かもしれない、夜中に急変するかもしれない」と彼を脅して呼び寄せた。優しい鴨は来てくれた。トイレとベッドを往復する私に付き添い、吐いている間、背中をさすり、おかゆを食べさせ、今度は鴨が私の歯を磨いて、布団をかけた。久しぶりに会えた鴨から、私は彼が好きになった子の情報を聞き出そうとした。私より可愛い? 私より優しい? どこが私よりいいの? 鴨は絶対に答えなかった。「ただ新しいだけ。違う子とも付き合ってみたかっただけ」どう聞いてもそう答えた。今、付き合っているかどうかも教えてくれなかった。彼女を守ってたのかもしれないけれど、結果的に私もそれで救われた。
「その子の前で鴨は泣けるの? その子はちゃんと鴨を守ってあげられるの? 私みたいに」
もう会えるのはこれが最後という気がして、私はどんな惨めなことも思いついたことは全部言った。
「わからないけど、頑張ってみる」
鴨はそう言って、お酒も飲んでいないのに、はたりと涙をこぼした。それでやっと決心がついた。私はこの子を放してあげないといけない。
彼がマンションを出て、橋を渡り、神田川の向こう岸に行くのをベランダから見送った。それは冬のことで、枝だけになった桜のすきまから彼の背中が見えた。振り返って、と思いながら同時に、振り返るなよ、と思っていた。鴨は振り返らなかった。それきりだった。
あれが花の時期じゃなくてよかった。次の恋をするまでもっと時間がかかっただろうから。
鴨は今も泣くだろうか。そのそばに優しい誰かがいてくれるといい。鴨がどんなにすてきな鴨か、上手に伝えられる人だといい。
私は、坂口健太郎が世間でフィーチャーされるたび、投稿したくなる。
「元カレが坂口健太郎に似ていてね、」
でもほんとは、ただ、あなたの自慢がしたいだけなんだ。
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