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どこでもいいからどこかへ行きたい

2024.10.25 公開 ポスト

「小笠原諸島24泊25日ただし途中で帰れませんツアー」に参加して特に何もしなかったpha

このたび、第15回エキナカ書店大賞にphaさん著『どこでもいいからどこかへ行きたい』が選ばれました。ふらふらと移動することをすすめる本書より、受賞を記念に、抜粋記事をお届けします。

旅行の記憶はざっくりでいい

島というものに昔から漠然とした憧れがあった。

もともと海が好きで、と言っても泳ぐのとか潜るのが好きなわけではなく、ただ岸辺からぼーっと海を眺めているのが好きなのだけど、島というのは360度全ての方向を海に囲まれているわけで、これは海が好きな人間にとっては垂涎の環境なのではないか、と思っていた。

あと、島という環境の特殊性にも興味があった。島にはどんな生物がいて、島に住んでいる人はどんな生活をしているのだろうか。大量の水によって他の土地と隔てられたクローズドワールドの中では、本土にないような独自の生態系や文化が発達していたりして、見たことのない木や家があったりするのだろうか。そんな感じのぼんやりとした憧れを持っていた。

 

最初に一人で島に行ったのは香川県の直島だった。

直島というのは瀬戸内海に浮かぶ小さな島なのだけど、ベネッセが島全体をアートの島としてプロデュースしていることで有名だ。島のあちこちにアート作品が展示されていたり、地中美術館という安藤忠雄が設計した大きな美術館があったりする。

だけど僕はアートにはあまり興味がなかったので、ほとんどの観光客が行くという地中美術館にも行かず、アート作品もあまり見なかった。ただどこでもいいから島に来たかっただけなのだ。

アートに興味がないのになぜ直島に行ったかというと、観光客が多い島だと自分が目立たないと思ったからだ。

一人で特に観光地でもない島に行った場合、よそものが他に全然いなくてすごく目立ってしまって、地元の人たちに「こんな何もない島に一人で何しに来たんだろ」とか「自殺や犯罪をするつもりじゃないだろうか」みたいな目で見られるんじゃないかというのが怖かったのだ。直島なら「あ、僕アート好きなんでアート見に来たんですよ」という顔をしていれば一人旅でも不審がられない。大きいカメラをぶら下げて旅をすると「写真を撮りに来た人なんだな」と思われて、辺へん鄙ぴな場所で一人旅をしていても不審者感が薄れるというテクニックと同じだ。あと、観光客が多い場所なら宿や食堂がそれなりにあって便利だというのもある。

直島で美術館にも行かず何をしていたかというと、レンタルの自転車を借りて島を一周したりしていた。確か1時間ちょっとで一周できたはずだ。海沿いの道を、左手にずっと海を見ながらひたすら自転車を漕こぎ続けるのは爽快だった。あと、うどん屋さんでうどんを食べたら美味しかった。

 

次に行ったのは小笠原諸島の父島だった。

小笠原諸島は一応行政区分としては東京都に属するのだけど、日本本土から南に1000キロくらい離れた地点にある絶海の孤島のような場所だ。緯度的には大体沖縄と同じくらい南にある。島には空港がないためフェリーでしか行けないのだけど、片道約24時間もかかるというとても行きにくい場所だ。

なんでそんな場所に行こうかと思ったかというと、小笠原諸島に行くちょっと変わったツアーがネットで話題になっていたのを見たからだった。

そのツアーの趣旨は「小笠原諸島に24泊25日(船中2泊3日を含む)、ただし途中で帰れません」というものだ。どういうことかというと、小笠原諸島には普段は週に一度東京から「おがさわら丸」というフェリーが出ているのだけど、年に一度だけフェリーのメンテナンスがあって、メンテナンス期間の3週間は島に行き来する便が全くなくなってしまうのだ。

そこでその島から出られない3週間、島に滞在してみませんか。往復のフェリー代と宿泊費をセットで安くします。というのがツアーの趣旨だった。

ツアー代は10万円ちょっとだった。宿泊費込みで3週間の旅行で10万円ちょっとというのは結構お得な感じじゃないだろうか。こんな機会でもないと小笠原諸島まで行くことはなさそうだし、一度離島の生活を体験してみたかった。3週間島から出られないというのもちょっと推理小説ぽくてワクワクする。あと、その期間は冬だったのだけど、僕は寒いのが苦手なので本土の冬の寒さを避けて亜熱帯でしばらく過ごせるというだけでも魅力的だった。

さらに、長時間フェリーで移動するというのにも憧れがあった。僕は鈍行列車とか高速バスとかだらだらゆっくり移動しながら旅ができる乗り物が好きなのだけど、フェリーというのはだらだら系の乗り物の中でも最高峰のものだと思う。

なんと言っても食事中も睡眠中もひたすら移動し続けられるのだ。フェリーというちょっとしたビル並みの巨大な建造物の中で、起きて寝てごはんを食べてシャワーを浴びて本を読んでぶらぶら歩き回るという全ての人間活動が行われ、その巨大建造物が丸ごとそのまま波をかき分けながら目的地へと進んでいくのだ。こんな豪快なことはない。

そう考えるとこれはもう行くしかないだろうという気分になってきて、ポチッとツアーに申し込みをしたのだった。

大きめのザックに3週間分の生活用品を詰め込んで、東京の竹芝桟橋から船に乗り込み出航する。狭い東京湾を抜け出すと360度どちらを向いても海になる。幸いなことに天気もよく、甲板に出るとそこには太陽と海と風があふれていた。

これは最高に気持ちいいな。という感じで出航してすぐはかなりテンションが上がったのだけど、ざっと船の中を一通り見回って海を眺めるのも一段落すると、わりとすぐに飽きてきた。海の上は景色もいいし気持ちいいのだけど、いくら進んでもひたすら海しか見えなくて単調なのだ。やっぱり24時間もフェリーに乗るのは長いな。フェリーは4時間くらいがちょうどいいかもしれない。というわけでフェリーに興奮していたのは最初の1時間くらいで、そのあとはだらだらと2等船室(一番安い雑魚寝の部屋)で寝転んで本を読んだりしていた。

やがて夜になって、船の中で眠って起きてしばらくすると小笠原諸島の父島に着いていた。船から港に降り立ち、割り当てられた宿に徒歩で向かう。そこは普通のワンルームマンションみたいな部屋だった。ここでこれから22日間を過ごすのだ。

結局僕は小笠原諸島に滞在中、大したことは何もしなかった。小笠原諸島に旅行で来る人というのは大体、海が綺麗なのでダイビングをするか、もしくは父島の隣にある自然が豊かな母島という島に渡って山や海を歩き回るエコツアーに参加したりするのだけど、僕はどちらもしなかった。そういうのはお金がかかるし面倒臭いし、そもそもそういうことをしに来たわけじゃない。僕はひたすら「何もしない」をしたくて小笠原まで来たのだ。

大体毎日適当な時間に起きて、持っていったパソコンでインターネットを見て、外をぶらぶら散歩して、スーパーで食べ物を買って料理を作って食べて、海を見たり本を読んだりして、夜になったら寝る、といった普段と変わらない生活をひたすら送った。こういう機会でもないと読まなそうな三島由紀夫の『豊饒の海』という全4巻の長い小説を読んだらすごく面白かったのが今でも印象に残っている。

島については、僕が離島というものに特殊な幻想を抱きすぎていたのだろうけど、「予想よりも普通に生活できるな」「予想よりも普通に日本だな」という印象だった。普通にネットもつながるしテレビも映る。スーパーに行けば米や肉や野菜が買える。自動販売機には普段見慣れたペットボトルのお茶や缶コーヒーが並んでいる。街に並ぶ民家も本土にあるのとそんなに変わらない普通の家だ。神社も交番も学校も普通にあるし、道路はよく整備されていて見慣れた信号や交通標識が立ち並んでいる。ときどきアロエや椰や子しみたいな亜熱帯ぽい植物が生えていたり、野生化したヤギ(駆除対象になっている)がたくさんいるのとかは珍しかったけど、そういう目新しいものより見慣れたもののほうが多かった。

まあそもそも異文化を見たいのなら外国にでも行くべきだし、こんな本土から1000キロ離れた島でも普通に日本的な生活ができるインフラが整えられているということに感心するべきところだろう。これが国家というものの力か、と思った。

地図で小笠原諸島を見ると、日本列島から地理的にかなり離れているということを意識せざるを得ない。その離れ具合を見ると、何かちょっと歴史が違ったらここは日本の統治下になかった可能性もあるかもしれない、という想像をしてしまう。

実際に、日本の一部としての小笠原諸島の歴史というのはあまり長くない。日本人が小笠原諸島に住み始めたのは幕末・明治の頃からなので、せいぜい150年ほどの歴史しかない。

太平洋戦争中は南方進出の拠点として軍の基地が置かれていた(今でも自衛隊の駐屯地がある)。敗戦後は沖縄や奄美のようにアメリカの占領地となり、アメリカから日本に返還されたのは1968年のことだ。

もし小笠原諸島がもっと南にあってサイパンの近くにあったら今頃サイパンと同じようにアメリカ領だったかもしれないし、もっと南西のフィリピンの近くにあって昔からフィリピン人が住んでいたらフィリピン領だったかもしれない。

そうしたら今頃この島の風景は全然違う感じになっていただろう。海や山や動植物は同じだろうけど、街の建物や人々が話す言葉や看板の文字は全然違うものになっていたはずだ。

たまたま小笠原諸島は、さまざまな歴史的経緯や地理的状況の結果として、政治的にも経済的にも恵まれた状況にあった日本の、その中でも一番お金のある東京都の管轄下にあって、そのおかげで人口が少ない絶海の孤島なのにもかかわらず、きちんと舗装された道路や綺麗な公衆トイレが設置されている。ここがもしフィリピンの果てにある離島だったなら、もっとインフラが整ってなくて生活に苦労していただろう。ありがたいことだ、と思いながら毎日綺麗な公衆トイレで用を足していた。

 

そんな風に小笠原諸島で僕は単に普通の生活をしていたのだけど、そうすると「生活ってそれ自体は島でもそうでなくてもあまり変わらないんじゃないか」ということを思うようになった。思えば普段生活しているときでも、仕事でもなければそんなに隣の街とかに行かないものだ。どうせ自分の街から離れないのなら、街の外が海で囲まれていても囲まれていなくてもあまり関係ない。

問題になる点としては、島の生活はちょっと週末にどこか遊びに行きたいときなどに行く場所がなかったりするだろうし、買い物は今はネットでなんでも買えるけれど、離島だと送料が高くなるというのが結構不便そうだと思った。

ただ、自分のように一時的な旅行者として滞在する分には、その不便さや外界との隔絶感はわりと居心地のよいものだった。いつもと同じネットやテレビを見ていても、本土で起こるニュースやイベントは自分にはあまり関係ない遠くのものとして聞こえてきた。生活の内容は普段と変わってなかったけれど、家から1000キロも離れて海で隔てられているという物理的環境のおかげで、自分のいつも暮らしている世界を客観的な醒めた視点から見直すことができる感じがしたのだ。自分が旅というものに求めているのは、普段と違う環境に身を置くことによって自分の普段の暮らしを相対化することなので、それで十分だった。

この文章を書くにあたって久しぶりに小笠原で撮った写真を見返してみたのだけど、その中に海に沈む夕陽の写真があった。このとき、「この夕陽はものすごく綺麗で今すごく感動していて、この気持ちをずっと忘れずに生きていきたいけれど、でも多分そのうち忘れるんだろうな」と考えたことを覚えている。実際に今写真を見ても、夕陽なんてものは写真では実物の1万分の1くらいしかよさが伝わらないものだから、当時の感動をほとんど思い出すことができない。でもそれはそういうものなのでしかたがない。

小笠原では大して特別なことを何もしなかったせいか、3週間もいたのにあまりはっきりとした記憶が残っていない。でも、それは一概に悪いことでもないのだと思う。覚えてなかったとしても毎日海辺の砂浜で海を見ながら冬の亜熱帯の暖かな日射しを浴びてぼんやりと過ごした時間は絶対によいものだったはずだし、特に何も問題がなくて心が静かで穏やかな時間を過ごせたからこそ取り立てて記憶に残っていないのだろうと思うからだ。

旅の経験をできるだけあとに残そうとして、記念写真を山ほど撮ったり印象に残るような観光ツアーを詰め込んだりするのはあまり好きじゃない。忘れないものや物質としてあとに残るものしか意味がないという考えはつまらないし、そういう考えを突き詰めると、人間はどうせ死んで全てはなくなるから何をしても無駄、というところに行き着くんじゃないかと思ったりする。

これからもたくさん面白いことをしてたくさん忘れながら、「あんまり細かいことは覚えてないけどなんかいろいろいい感じだった気がする」くらいの気分でずっと生きていけたらいいなと思う。

11月29日(金)pha×よしたに「中年が孤独と不安をこじらせないために」トークを開催!

人生の迷いや不安なども率直に語り合いながら、今後の展望へとつながる知恵やコツを交換しする場にしたいと思います。申し込み方法は幻冬舎カルチャーのページをご覧ください。
 

関連書籍

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』

家にいるのが嫌になったら、突発的に旅に出る。カプセルホテル、サウナ、ネットカフェ、泊まる場所はどこでもいい。時間のかかる高速バスと鈍行列車が好きだ。名物は食べない。景色も見ない。でも、場所が変われば、考え方が変わる。気持ちが変わる。大事なのは、日常から距離をとること。生き方をラクにする、ふらふらと移動することのススメ。

pha『できないことは、がんばらない』

他の人はできるのに、どうして自分だけできないことが多いのだろう? 「会話がわからない」「服がわからない」「居酒屋が怖い」「つい人に合わせてしまう」「何も決められない」「今についていけない」――。でも、この「できなさ」が、自分らしさを作っている。小さな傷の集大成こそ人生だ。不器用な自分を愛し、できないままで生きていこう。

pha『パーティーが終わって、中年が始まる』

定職に就かず、家族を持たず、 不完全なまま逃げ切りたい―― 元「日本一有名なニート」がまさかの中年クライシス!? 赤裸々に綴る衰退のスケッチ 「全てのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代の頃、怖いものは何もなかった。 何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。 この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。 喪失感さえ、娯楽のひとつとしか思っていなかった。」――本文より 若さの魔法がとけて、一回きりの人生の本番と向き合う日々を綴る。

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pha

1978年生まれ。大阪府出身。京都大学卒業後、就職したものの働きたくなくて社内ニートになる。2007年に退職して上京。定職につかず「ニート」を名乗りつつ、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作る。2019年にシェアハウスを解散して、一人暮らしに。著書は『持たない幸福論』『がんばらない練習』『どこでもいいからどこかへ行きたい』(いずれも幻冬舎)、『しないことリスト』(大和書房)、『人生の土台となる読書 』(ダイヤモンド社)など多数。現在は、文筆活動を行いながら、東京・高円寺の書店、蟹ブックスでスタッフとして勤務している。Xアカウント:@pha

 

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