孤独な女子大生・千歳は、20歳の誕生日に神社の鳥居を越え、「千国」という異界に迷いこむ。そこで毒舌イケメン仙人の薬師・零に拾われ、弟子として働くが、「この安本丹!」と叱られる毎日。ところが、お客を癒す薬膳料理をつくるうちに、ここが自分の居場所に……。
友麻碧さんの人気シリーズ、『鳥居の向こうは、知らない世界でした。』は、そんなほっこり師弟コンビの異世界ファンタジー。読むほどに引き込まれる、夏休みにぴったりの一冊です。ここではストーリーの序盤を、ほんの少し公開します。
異界への扉
くぐる。千本鳥居を。
「なんなの……これ……この状況……」
千本鳥居はぎゅーぎゅーに連なっていて、ここから外へ抜け出せる程の隙間は無い。
まるで、朱に染まった四角のトンネルみたいだ。外部からは隔離され、ただ下へと下りて行く他無い。
あれ。鳥居のあちこちから、鮮やかなランタンがぶら下がっている。
朱と橙の灯が照らし出す、極彩色の模様。これ、中華ランタンという奴かな。和風の提灯とは少し違う。
千本鳥居の四角いトンネルを、異国チックなランタンが照らしているなんて変なの。
美しくて、不気味で、やっぱりどこか怖い。
………不思議の国のアリスの物語を、こんな時に思い出す。
幼い頃、母がよく読み聞かせてくれた物語の一つだ。母も自分の母に、何度も読んでもらったのだと嬉しそうに語りながら。
そう……アリスは白ウサギを追いかけて、ウサギの巣穴に転がり落ちる。
そのまま、下へ下へと、不思議な世界に迷い込むのだ。
私も黒ウサギにそそのかされ、この訳の分からない朱の四角をひたすら下りている。
どこまで下りたのか、どれほど鳥居をくぐったのかすら、もう分からない。
ああ、そうか。きっとこれはアリスと同じで、夢なんだろうな……
下りてしまえば夢は覚める。私ももう少しすれば、あの境内で目を覚ますのだ。
さっき膝に顔を埋めたまま、眠ってしまったに違いないのだから。
どうかそうであって欲しい。そうでなければ困る。
怖い。怖い。
延々と続く朱色の囲いを、焦燥の気持ちのまま下りていた。足には力が入らず、何度ももつれて転びそうになりながら……
しかし突如として終わりはあった。
千本鳥居を越えたのか、四角く切り取られた様な、光の出口が見えたのだ。それまで慎重に下りていた私も、思わず足に力が入り、駆け足で出口を目指す。
良かった……っ、もう永遠に、出られないかと思った!
「…………」
青と白の蝶々が、ひらひらと舞っている───
そう。光の先にあったものは、私の想像とは遥かに違うものだった。
神社へ連れて行った、住宅地の裏手の道路はそこに無く、ただ凜として張りつめた空気の中、青と白の蝶が静かに舞う不思議な庭園が広がっている。
甘い匂いと苦い匂いが混じり合った、懐かしいとすら感じる草木の香り。さっきまでの恐怖の余韻を消し、呼吸を整える為に、何度もこの空気を吸い込む。
ここは、どこ?
そう。問題はそこだ。空を見上げると、高い樹々の隙間から濃い夕暮れの空と、大きな大きな入道雲が見える。
また、奇妙な模様が描かれた色とりどりのランタンが、あちこちの樹の枝からぶら下がっていた。さっきの鳥居で見たものに近い。
「そうだ、黒ウサギ」
知らない場所に出てしまったが、あの黒ウサギはどこに行ったのだろう。
スマホを奪われたままだ。キョロキョロと辺りを見渡し、ぐるりと振り返る。
「……え」
千本鳥居が、無い。
そこにはただひっそりと、苔むした大きな赤鳥居が一つあるだけだった。鳥居の向こう側に見えるのは、この庭園の続きの緑だけ。私が下りてきたあの石段も無い。
「何なのよ……何なのよ、いったい」
この不思議な現象の何もかもが分からず、私はもう震えそうになる体を両手で抱いて、ただただ、その鳥居を見上げた。
何千何百年前のものなんだろう。
朱の色も所々剥げ、今にも朽ちて壊れそうな、古の大鳥居。
誰からも忘れられたものの象徴。その退廃的で孤高な姿は、同時に、もうあの場所へは戻れないのではという恐怖を私に与えた。
やはり静かに、蝶が舞う。
清々しい空気と、懐かしい気がする甘い香りが、私を包む。
何がきっかけだったのか何なのか、突如小雨はとんでもない豪雨へと変わって、私の体を強く強く打ち付けた。
立っていられずふらついて、そのまま地面に倒れ込む。おかげで服も髪も、持っていた鞄さえびしゃびしゃだ。眼鏡も雨の衝撃で顔から弾かれ、どこかへ流されてしまった。
……でも、まあいいか。
体は痛いけれど、夕焼けを映し込んだ水たまりに浸っているのは、何だか悪くない。
夏の火照った体を冷やし、隠し続けた胸の痛みを暴く。
そうして、過去も、煩わしいだけの家族との繋がりも、自分にくっついて離れない“別の女との娘”というレッテルも、全部全部、流れてしまえばいい。
……あの、黒ウサギの声がする。
ハッピーバースデイ。おめでとう。
だけど、お前はこれから、たった一人でどこへ行くんだい?
何の為に、誰の為に、頑張って生きていくの?
「……おい小娘。そこで何を転がっている」
聞いた事の無い別の男の声までもが、私に問いかける。
この猛烈な雨の中、音も無く現れ、悠々と側に立ち、顔を覗き込む者が居たのだ。
銀……白銀の……髪?
「やれやれ……異界の……は……」
雨音のせいで言葉が聞き取り難い。それに、なぜかとても眠いのだ。
甘く懐かしい香りが、そうさせる。
(つづく)