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メデューサの首

2019.12.28 公開 ポスト

狂犬病患者が水を恐れる衝撃の理由内藤了

老いた研究者×毒舌美人刑事コンビがゾンビ・ウイルス捜し東京中を駆ける!「猟奇犯罪捜査班 藤堂比奈子」シリーズ著者が描く戦慄のパンデミックサスペンス、試し読み第5回。微生物学者・坂口(65)は恩師・如月の遺した謎のウイルスを発見したが…前回までのお話はこちら

*   *   *

6月中旬。

「あなた、ねえ?」と、妻が訊ねる。

謎のウイルス発見から数日後。弁当を届けに来たのを口実に、彼女は研究室の掃除をしている。

梅雨時は明るい雰囲気にしましょうと、応接テーブルのクロスを薄い黄色に掛け替えた。白い小花を散らした乙女チックなデザインだけれど、もとより坂口はインテリアに興味がなく、自宅でも研究室でも、家内が掛けたまま、片付けたまま、飾ったままで生活している。

彼女は手のひらでクロスの皺を伸ばしてから、テーブルに置かれていたあれこれを、元の場所に戻し始めた。華やかでかわいらしいテーブルクロスは、灰色の研究室に咲いた花畑のようだった。

ウイルスには意志があるって、ホントなの?」

(写真:iStock.com/imtmphoto)

研究に関心などないくせに、唐突に悪戯っぽい目を向けてくる。

「ウイルスには意志がある?」

オウム返しに答えると、

「本当なの? 今読んでいる本にね、そんなことが書いてあるのよ」

坂口は老眼鏡を外して妻を見た。自宅に置いた研究書を彼女が読むとも考えにくいが。

「今ね、幸子から借りたホラーを読んでいるんだけど、あるウイルスに感染すると、ウイルスが人の脳を操作して、高い場所から飛び降りるようにしてしまうのよ。それで、遺体の近くにいた人たちが次々に感染していくの」

何かと思えば小説の話だ。作家の想像力ってやつは、どこまでも無責任で浅ましいなと思う。子供たちが家を離れて時間を持て余しているのかもしれないが、妻にはホラー小説などではなくて、もっと平和で愛に満ちた書物を読んで欲しい。

そう思うそばから、読みもしないで否定するのは科学者らしからぬ思考だな、と反省する。坂口は自分のデスクを離れ、妻のいる応接テーブルのそばへ移動した。

「意志を持つとは言えないまでも、ある種のウイルスが感染者の脳を操作するのは事実だよ」

「じゃあ、本当なのね」

そう単純な話ではないと、坂口は苦笑する。

「その小説の発想の元になったのは、バキュロウイルスのようなものだと思うね」

「なあに? その難しい名前のウイルスは」

家内がテーブルに戻そうとしていた精密機器のパンフレットを、坂口は取り上げて別の場所に移動した。資源ゴミになる書類用段ボール箱の中である。

「バキュロウイルスについては、東京大学の農学生命科学研究科がメカニズムの一端を明らかにしているんだけどね」

(写真:iStock.com/Rost-9D)

「難しいことを言われてもわからないわよ」

梢頭病(しょうとうびょう)という昆虫の病気がある。幼虫だけでなく、サナギや蛾でも発病するんだが、梢頭病の原因がバキュロウイルスなんだよ。このウイルスの一群には多角体と呼ばれるタンパク質の結晶で守られているものがあって……」

疑問の本筋はそこではないと、家内は小首を傾げてみせる。

坂口は咳払いをした。

どうしても、専門知識を持つ学生に説明するようになってしまうのだ。

このウイルスに感染した昆虫は枝の先などに移動していく。さっきの話に戻すなら、ウイルスが、感染した個体を外敵の目に届きやすい場所へ誘導するとも言えるかな」

「なんのために?」

「ウイルスは生きた動物の体内でしか繁殖できないんだよ。だから病気の虫を鳥などに捕食させ、昆虫より大きい鳥の体内で繁殖するんだ。

 枝先に登らせる理由はもう一つあって、高い場所にぶら下がった状態で昆虫を殺すためだ。梢頭病で死んだ個体は崩れやすくて、わずかの衝撃……例えば雨などで簡単に溶解してしまう。そうなると、多角体で守られたウイルス粒子が広範囲に撒き散らされるだろう? ウイルスは宿主から離れると急激に不活性化していくものだけど、粒子の状態であれば自然環境下でも病原力が比較的安定するからね。

 そうやって汚染された餌を昆虫が食べると、消化管内で多角体が解けてウイルスが遊離、体内に侵入してまた感染……こういう拡散サイクルを作り出すんだよ」

家内は目を丸くした。

「全部を理解できたとは言えないけれど、ウイルスが感染相手を操る可能性は、本当にあるのね……私、架空の話だとばかり思っていたわ」

「今のは昆虫の話だけどね、でも」

いたずらに恐怖心を煽るつもりはないが、坂口は家内の目を見て答えた。

科学は驚きに満ちている。事実は小説よりも奇なりというけど、調べれば調べるほど驚くことばっかりで、小説なんかよりずっと凄いよ。だからぼくは小説を読まない。研究のほうが、ずっとスリリングで面白いからね」

「でも、じゃ、あながち荒唐無稽な話でもないってことでしょ? ウイルスに感染した人が、高いところへ上りたくなるのは」

「バキュロウイルスは人に感染しないよ」

妻にはそう言いながら、坂口は、(そういえば、ウイルスが人間を操る例もある)と、思った。

「ただ、そうだね。例えばだけど、狂犬病は、恐水病とも呼ばれるくらい患者に水を恐れさせるね……これも広義では感染者を操っていると言えるのかもなあ」

散らかり放題の応接テーブルを、妻は魔法のように片付けた。パーティション奥のデスクまわりはそのままだけれど、そちらは雑然としたなりに坂口が置き場を記憶しているので触れようとはしない。

きれいになったテーブルに弁当の包みを載せて、風呂敷を開けながら彼女は聞いた。

「不思議ねえ。どうして水を恐れるのかしら」

(写真:iStock.com/Wavetop)

日本国内の狂犬病発生については1957年を最後に報告がない。

狂犬病は国内で忘れられつつある病気のひとつだが、未だ狂犬病を撲滅できていない国は意外と多く、完全に脅威が去ったとは言い難いのだ。

この病は狂犬病ウイルスに感染することで発症し、通常は1ヶ月から3ヶ月、長い例で6年もの潜伏期間がある。発症すると、発熱、頭痛、倦怠感、食欲不振や嘔吐、咽頭痛などを訴え、次第に知覚異常、筋の攣縮を起こし、興奮、運動過多、錯乱、幻覚など、狂躁型の症状を起こすことがあり、患者が凶暴化する例も多数ある。

発症すれば致死率は100パーセントで、最終的には昏睡状態を経て呼吸停止、死に至る。

「患者がなぜ水を恐れるかというと、狂犬病が唾液を介して感染するからだ。狂犬病ウイルスは感染力が低くて、水で薄められると感染できない。だから宿主を水に近づけないようにするんだよ」

狂犬病に罹患した生き物が水を恐れることはよく知られる。コップの水さえ恐れた事例があるほどだ。ウイルスは水で薄められると感染できないことを知っているのかもしれない。

「驚いた……ウイルスも、きちんと考えているんですねえ」

それが『考え』かと問われれば疑問だが、反論はしなかった。

ウイルスが宿主を操るメカニズムについてはまだ研究が始まったばかりだが、最近ではバキュロウイルスが宿主から遺伝子を獲得し、それを改変して行動操作に利用していることがわかってきた。

それにしても、昼食を前に交わす話題がウイルスや感染症のことだとは、我ながら苦笑してしまう。

この日の弁当は錦糸卵や椎茸の煮しめを飾ったいなり寿司だった。花畑のようになったテーブルで、ささやかな昼食を共にしながら坂口は、如月が教授だった頃、彼の細君が同じように大学を訪れていたことを思い出していた。

研究と講義と論文と学会に明け暮れて、家庭を顧みることのない研究者の細君たちは、時折このようにして自分の存在意義を問わずにいられないのかもしれない。

さらに数日後のことである。未明から雨が降り始め、裏門のケヤキ並木も、築山も、古い研究棟もジメジメと湿った朝だった。出勤して来たばかりの坂口が、濡れた靴を下駄箱に納めていると、准教授の黒岩が駆けて来た。

「先生、坂口先生、来てください」

ひょろりとして薄い体、長方形の顔にアンバランスなほど大きなメガネをかけた黒岩は、階段を下りるなり興奮して手招いた。

例のウイルスに感染させたマウスなんですが……」

その言葉だけで十分だった。

(写真:iStock.com/unoL)

咄嗟に帽子を小脇に挟み、坂口は黒岩より先に階段を上った。無機質で暗い階段に、ペタペタとサンダルの音が忙しなく響く。

『例のウイルス』とは、保管庫で発見した如月のウイルスのことである。分離してみると、狂犬病ウイルスの特徴を持ちながら、狂犬病ウイルスとは遺伝形質が異なっていた。つまり如月が発見した新種のウイルスか、もしくは何らかの作為によって発生させたウイルスの可能性があるということだ。

その正体を探るため、坂口は滅菌装置を完備した特殊研究室で、組織培養したKSウイルスを実験用マウスに感染させた。

それが2日前である。

「マウスがどうしたって?」

特殊研究室の前に着くと、ようやく坂口は黒岩に訊ねた。

特殊研究室へ入るには全身の着替えが必要だ。おそらくそこから出て来たために、黒岩はシャツにズボンという軽装になっている。廊下に下駄箱とロッカーがあり、研究員はここへ荷物や上着を置いて行く。ロッカーに鞄をしまうとき、大切な帽子を脇で潰していたことに気付いたが、そのまま放り込み、消毒液で手指を殺菌してから前室へ入った。

手袋をしてバイオクリーンワンピースを着込み、滅菌靴を履いてマスクをし、ヘッドカバーとゴーグルという全身白一色の出で立ちになる。

同じアイテムを装着しながら黒岩が言った。

3ケージすべて全滅しました。ついさっき二階堂君から連絡があって」

「出して確認してみたの?」

「いえ、まだです。とりあえず先生に見てもらってからにしようと」

「そうか。そうだね」

坂口は感応式スイッチの前で足を振り、滅菌室の扉を開いた。古い建物にある最新鋭の研究室は、自動扉の奥にもごく小さな前室があり、床にネズミ返しの突起があるほか、エア洗浄の滅菌セキュリティをかけている。

管理責任者である黒岩が先に出て、研究室の扉を開く。

室内灯の白い光が漏れ出して、センターテーブルの前に立つ二階堂の背中が見えた。扉が開く音で振り返ったが、すぐテーブルへ視線を戻す。一言も喋らない。予測のつかない事態を観察している最中のように、体中が緊張している

特殊研究室の内部は棚やカウンターで仕切られている。入り口すぐの壁に棚があり、ガラスケースの中にケージがびっしり並んでいる。中にいるのは納品されたばかりの実験動物で、病原体がクリアな状態。感染実験中の個体はそれぞれ観察場所へ移すことになっている。

黒岩は早足に二階堂のテーブルを目指した。

二階堂の前にはモスグリーンのケージが三つ並んでいる。二階堂が観察場所からセンターテーブルへ運んで来たのだ。それぞれのケージには5匹の感染マウスを入れてある。

一つめのケージには、KSウイルスを投与したマウスを正常なマウスと一緒に入れた。もう一つのケージには、KSウイルスを投与したマウスと正常なマウスを仕切って入れた。そしてもう一つのケージには、シャーレで培養したKSウイルスを正常なマウスと共に入れたのだった。

キュキュ……キュキュキュ……タタタタタ……パタパタタ……全滅したと聞いたのに、ケージからは奇妙な音が響いている。

 

* * *

 

つづくーー次回1月8日(水)更新。マウスたちに何が起きたのか……衝撃の展開が坂口を襲う!

内藤了『メデューサの首 微生物研究室特任教授 坂口信』

微生物学者の坂口がある日発見した新型ウイルス。感染したラットは互いを獰猛にむさぼり喰い、死んでいった。後輩に処分を任せたが後日、ウイルスを手に入れたという謎の団体から首相官邸に犯行予告が届く。人質は、全国民。目的は何なのか?毒舌女刑事・海谷とウイルスを捜すが、都内では次々と爆破事件が発生し―衝撃連発のサスペンス開幕!

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メデューサの首

致死率100%、ワクチンなし!? 最凶のゾンビ・ウイルスを奪還せよ!! 定年後の老教授×毒舌の美人刑事の凸凹コンビが東京中を駆ける――波留主演「藤堂比奈子」シリーズ著者が贈る極上のパンデミック・サスペンス開幕!(本記事は『メデューサの首 微生物研究室特任教授 坂口信』[2019年、幻冬舎文庫]の試し読みです)

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内藤了

長野市出身、在住。長野県立長野西高等学校卒。デザイン事務所経営。2014年、日本ホラー小説大賞読者賞を受賞した『ON 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』でデビュー。同作から始まる「藤堂比奈子」シリーズは広く支持を集め、16年、連続テレビドラマ化。その他「よろず建物因縁帳」シリーズなど、著書多数。

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