西本願寺第25代門主・大谷光淳さんの新刊『令和版 仏の教え』は、仏教や浄土真宗にまつわる素朴な疑問に一問一答形式で答えた一冊。
「厄除けは必要ですか?」「キリスト教や神道についてどう思いますか?」「仏壇にお供えしたものは、いつ下げたらいいのですか?」「同じ仏教なのに、宗派が分かれているのはなぜですか?」など、誰もが一度は抱いたことのあるような疑問に、仏教の専門用語を使いすぎることなく、わかりやすく回答しています。
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コロナ禍で先行きの見えない世の中をどう生きていけばいいのでしょうか?
新型コロナウイルス感染症の影響が長引くにつれ、これまで通りの生活が送れなくなり、先行きへの不安が大きくなるのも当然のことと思います。
しかし、かつてあなたが「見えている」と思っていた「先行き」は、本当に確かなものだったのでしょうか。世の中には、自分の力だけではどうにもならないことがあります。
本来、将来は誰にも予測できない不確かなものであるにもかかわらず、これを確実なものと思い頼りにしていると、予想外の出来事が起こったとき、「思い通りにならない」と絶望や不安を覚えるのです。「思い通りにならない」ことを「思い通りにしようとする」ことで苦しみが生じるのです。
思えば、いままで「当たり前」だと思って過ごしていた日常は、貴重な、「有り難い」毎日だったのではないでしょうか。また、自粛生活を経験してみて、これまで私たちがほんの少し出歩くだけで、いかに多くの人と接触し、つながりを持って暮らしていたかをお知りになったと思います。
そういう気づきこそが、仏教的な視点から出てくるものです。
朝起きて仕事に出かけていく。いろいろな人と交流する。休日には自由に外出できる。桜が咲けばお花見に行き、ゴールデンウィークやお盆休みを利用して故郷に帰省できる。自粛生活中にできなかったこれらのことは、本来すべてが当たり前ではなく、「有り難い」ことだったのです。外出すれば路傍(ろぼう)の花が、いまのあなたには美しく見えるでしょう。
このように、これまでは当たり前と思い、なおざりにしてきた一つひとつを見直していく価値観の転換が、いまこそ求められます。
新型コロナウイルス感染症では、自覚症状がないのに人に感染させるという危険があります。このことから、無自覚に感染させてしまうことを恐れ、親しい人と会うことを控えている方もおられるでしょう。いろいろな地域の産物が、自粛生活で売れなくて困っているとニュースで聞けば、できるだけ購入して応援したいと思われた方もおられると思います。
これらは、自分の都合だけではなく、他人を思う、人と人とのつながりを思う大切な機会です。
お釈迦さまの言葉を記した『ダンマパダ(法句経〔ほっくきょう〕)』という経典に次のような言葉があります。
まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する。
(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』11頁・岩波文庫 1978年)
この先、どんな出来事に直面しても、あなたは仏教の教える「まこと(真実)」と向き合っていくように努められてはどうでしょうか。
確実なものだと思い込んでいる先行き、こういうものだと思い込んでいる人生のひな型は、あくまでも主観的な願望の混ざった予想でしかなく、これらが大きく揺らぐ出来事が起こったとき、むしろあなたに余計な苦しみや不安をもたらす原因になりかねません。
一度得たものを手放すのは辛いと思われるかもしれません。たとえば仕事を失ってしまうこともあるでしょう。そのために自分の存在価値が薄れてしまったように感じる方がいるかもしれません。
しかし、役に立つかどうか、裕福かどうかは、「こうでなくてはならない」という社会や自分の基準、人と比べてどうかという基準でしかないのです。どのような境遇に陥っても、私たちを救おうとはたらいてくださる仏さまの「まこと(真実)」の基準は、あなたのありのままの毎日を照らしてくださる。このことを仏教は教えているのです。