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2021.09.16 公開 ポスト

炊いた釜飯は200杯超。底なしの「釜飯沼」でわかったこと後藤正文

食器棚から発見されたのは、いつ、どこで買ったのかわからない釜飯の釜。コロナ禍の先の見えない非日常感が、普段取らない行動をとらせたようです。ミュージシャンのゴッチさんこと、後藤正文さんが思いがけずハマった「釜飯沼」は、どこまでも深くて――。

「折角だから炊いてみようかしら」

デパートの催事場は、集う人々の身と心が浮かれるような感じがして楽しい。

 

現地に行かないと食べられない特産品のフェアは、そうした楽しさの頂点だと思う。特に北海道の魚介などを販売する店が集まるときには、魂が身体から離れてふわふわと天井付近まで浮かれ上がり、胃袋のサイズや今月の食費といった身の丈を超えた海鮮丼をふたつみっつ買って帰ることになる。

それに比べると釜飯フェアなどは幾分地味だ。

温泉街などの旅行地で釜飯の専門店の暖簾をくぐったのならば当然注文するが、空腹に任せて入店した行きずりの蕎麦屋で釜飯セットを見かけても、真夏に鍋焼き饂飩(うどん)を脳内で扱うかのごとく選択肢から素早く消去する。調理によって発生する待ち時間と、食事によって得られる快楽のバランスが悪いように感じるからだ。デパートの催事の場合には、自宅まで陶器ごと持ち帰る労力が購入の意欲を削ぐ。

どんなに気分が浮ついていても、デパートで釜飯を買って帰ることはないだろうと俺は思っていた。

しかし、人間は愚かな生き物で、魔が差すというか、自分でもどうしてこんなことをしてしまったのかと後悔をすることが多い。二度とするまいと心に誓った失敗のあとでも、問題の根本を解決しようとせずに放置してしまう。軽はずみな欲望や思いつきを許したり、愛したりしてしまう。その結果として何が起こるのか。食器棚の奥底から、いつ食べたのかよくわからない釜飯の釜が発見されるのである。

デパートの釜飯フェアで買ったのだろうか。魂の底まで浮かれ上がっていたのか、当時の記憶がまったくない。そして、釜を捨てずに取っておいた理由の見当がつかない。

ひょいと捨てるには釜飯の釜はサイズが大きく、デジタル時代にどっぷりと浸かった我が家には、取り置いた新聞の古紙などの壊れ物を包むための資材も少ない。また、このような不燃物を何曜日に捨てたらいいのかもわからない。そうした面倒サイドからの思念が廃棄ではなく放置という選択肢を支持したのでないかと想像する。

そして、捨てに行くのが面倒だなという気持ちを後押ししてくれたのは、己の身のうちに巣食うスケベ心だろう。何かに使えるかもしれないし、ともすればメルカリやヤフオクのような個人売買のアプリによって、いくらかの収入がもたらされるかもしれない。そうした卑しい考えによって、俺は飯釜をとりあえずみたいな感じで食器棚に仕舞い、時折邪魔くさいと思いながら、棚の奥底のポジションに移動させていったのだと思う。

悲しいことだ。

時はコロナ時代。

と書くと大袈裟だけれども、ステイホームを実践するにあたって、生のエネルギーがずんずんと何処かに消え失せていくような実感があった。なかなか行き先が見えないなかで、あるのかないのか分からない「その先」に向かって何かを我慢するということの難しさ。戸惑いと慌てふためきを静かに煮詰めたような生活のなかで、ふと目に入ったのは食器棚の奥に放置された飯釜であった。

折角だから炊いてみようかしら。

そうした軽い気持ちで五目釜飯を炊いてみた。

端的に言って味の薄い、飯釜に入れたはずの調味料がすべて霧消したかのような仕上がりだった。

はもはもと釜飯を頬張りながら、悔しさと楽しさが8対2の割合で混ざったような感情が湧き上がってきた。悔しさはじっとりと身体に残ったが、その上部で不思議と楽しさが泡立っていた。優れたバリスタならば、その泡で可愛い熊の絵を描いたりするのだろう。

冷蔵庫を開けると、そこには真空パックの蒸し鶏があった。蒸し鶏というよりは、炊き鶏と呼びたい、そんな気持ちがむくむくと芽生えた。リベンジ以外の選択肢はなかった。それが釜飯沼の始まりだった。同じ日の夕刻になぜか俺は鶏釜飯ではなく、飯釜で炊いたカオマンガイを半笑いで食していた。

以来、200杯を越える釜飯を炊いてきた。

催事場で買った飯釜が7食目で割れてしまったときには、絶望に近いような心持ちになった。気を取り直して通販サイトで買った飯釜の底にも、いつしかヒビが入り、現在は一合炊き用の土鍋を使っている。それは釜飯ではなく土鍋飯ではないかという厳しい視線を向ける人もあるだろう。はっきり言ってそんなことはどうでもいい。土鍋で炊いたほうがキッパリと美味しい。これから釜飯をはじめようと思っている人には、「つかもと」のkamacco一択だと語気を強めにして伝えたい(すべてのコツを破壊する力が、このkamaccoには宿っている。きっちり20分、弱火にかけて放っておくだけでいい)。

釜飯を炊きはじめたころは、家族のために作った弁当をムックにまとめて販売し、トークショーなどを行った先輩ミュージシャンの顔や、演奏だけでは飽き足らずにステージ上でクッキングをはじめて観客に振るまうという興行をはじめたバンドメンバーの顔が浮かんでいた。しかし、彼らの成功に続けるかもしれないという下心は、いつしか完全に消え失せていた。

今では純粋に、釜飯を炊くのが楽しい。

どんな具材で炊こうかしら。そうした食に対する想像は生きるためのエネルギーと直結している。それはコロナ時代のはじまりの、最大の発見のひとつであった。

明日に食べる釜飯のことを考えながら、自らの命を経つ人は限りなくゼロに近いのではないかと思う。ランチタイムについての短期的な未来予想や想像が、これほどまでに自分の生を肯定し、内外から精神を励ましてくれることを知らなかった。書店に食の本がたくさん並んでいる理由は、こうした感覚と近いのかもしれないと思った。

無理矢理に新しい場所を掘らなくても、身近な生活のなかに僕らを活かすことがたくさんある。何気なく読み飛ばしたり聞き逃したりするように飲食してしまうことが多かったが、自分で作ってみると、料理はとてもクリエイティブな作業なのだとわかった。食べることだって、芸術鑑賞みたいなことなのかもしれない。

世界中の料理のレシピが検索できるのに、釜飯に執着する様はどこか滑稽だろう。自分でも時折笑ってしまいそうになる。

ただその滑稽さが、自分の精神や魂の渇きを潤してくれているように感じる。私はそれを「心のヒアルロン酸」と呼ぶことにした。

釜飯のお陰で、精神の膝関節が滑らかに屈伸している。

最初に炊いた五目釜飯。本文にもある通り、味が薄く微妙な出来だった。
ハンバーグを丸ごと放り入れて炊いた後、フライドポテトを添えた釜飯。「ファミレス」と命名。
kamaccoで炊いた鮎の釜飯。問答無用の美味しさ。

※ゴッチさんの日々の釜飯沼の様子は、インスタグラムをご覧ください。レシピもついています。眺めるだけでも、心が滑らかになります。

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毎日を充実させてくれるさまざまな趣味。以前から好きなもの…とはまた違う、このコロナ禍で新しく出会った、再認識した、喜びの世界。

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後藤正文

1976年静岡県生まれ。日本のロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATION のボーカル&ギターを担当し、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がける。ソロでは「Gotch」名義で活動。また、新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長を務める。レーベル「only in dreams」主宰。著書に『何度でもオールライトと歌え』(ミシマ社)、『YOROZU妄想の民俗史』(ロッキング・オン)、『ゴッチ語録』(ちくま文庫)がある。

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