ツイッターに作った「もう一人の私」が動き出す――。2月10日に発売された文庫『特別な人生を、私にだけ下さい。』(はあちゅうさん著)は、ツイッターの裏アカウントで「もう一人の自分」を持った人々を描いた物語。「本当の自分」では得られない特別な人生が欲しくて、もがいて、そのときツイッターは、とても便利なツールになるのかもしれません。登場人物の一人「ユカ33歳」の最初の章を5回にわけてお届けします。最後は、夫からのメッセージが表示されて――。
私も秘密を持って寂しさは自分で処理する
「じゃあ、友達になるとして、今から何する? お話でもする?」
性的対象を外れた瞬間、緊張がとけたのか、お酒の中の氷を指でつんつんと触ったりして、自由に振る舞いだす鉄平。
そう言われると困ってしまった。
ツイッターでいつも見ている人に会いたかった。会えば満足だった。その先なんて考えていない。
「そうだね、何しようか」と目が覚めたようにつぶやくと、鉄平はあきれ顔で「もー、ユカさーん、何がしたいの、ほんと」と言った。本音を隠すことを知らない彼の表情はまっすぐすぎて、そのまま胸まで突き刺さってくる。
私、何がしたいんだろう、ほんとに。
したいことなんてないんだよね、たぶん。
だからこうやって、誰かが何かを仕掛けてくれるのを待っちゃうんだよね。
私ってバカだなぁ。
安いウーロン茶は喉を潤すどころか、逆に舌から水分を奪っていく。自分がいるのは、バカにしていた彼よりさらに底辺だ。
その時、都合のよいタイミングでスマホがブルブルと手元で震えた。
表示されたプレビューには「かえる」という文字。決まって平仮名の、見慣れた表示。
「あ、旦那からだから、もう帰らなくっちゃ」
「そっか。じゃあ俺も今日は帰ろうかな。ユカさん、またね」
いつのまにか、彼の早口はおさまっていた。
お互いに怖いのは最初だけだったみたいだ。
東横線の改札まで鉄平を見送り、自分は地上に上がってタクシーで広尾に戻った。三十分後に旦那の恭平(きょうへい)が帰ってくる。仕事が終わるとすぐに「かえる」というラインをくれる。そういう律儀なところが好きだ。
いつものようにエプロンをつけて、ダイニングテーブルを丁寧に拭き、ハンバーグと作り置きの野菜のおかずとみそ汁を温める。
料理は出来たてを出す主義だから、一人分のお皿にラップをかけてチンをする作業があまり好きではない。恭平の趣味で装飾の少ない静かな部屋に、電子レンジのチンという音がこだますると、妙に物悲しい空気が流れる。
おかずは準備するけれど、炭水化物は、夜遅くに食べると体に肉としてつきやすいので、抜く。代わりに、恭平は会社の向かいのコンビニで毎夕方におにぎりを二つ買っておやつ代わりにしているという。
そういった自主的な努力のおかげで、恭平は40代だというのに、お腹も出ていなくて、足がスラッと伸びていて、かっこいい。
食卓を調(とと)のえて、ニュースを見ていると、恭平が帰ってきた。
鉄平に会う前には、FBIが犯人の心理分析をしながら難事件を解決するドラマを見ていた。こういうドラマは、見ていてハラハラするところがいい。手軽に手に入る非日常。自分の居場所が平凡ではあれど、安全な場所であることを教えてくれる。
恭平がご飯を食べている間、私はニュースを消して、いつも通り隣に座って、本を読んだり、スマホをいじったりしていた。
恭平も食べながらたまにスマホを見たり、仕事の電話を受けたりする。食後もそれぞれに過ごす。お互いに思いついたことをたまに口に出して、相手が答える。
「そんなふうにバラバラに過ごすなんて不自然だよ」と美香に言われたことがあるけれど、うちの夫婦はこれが普通なのだ。無理に相手に合わせないと、結婚前にも約束した。
恭平が「お互いがちょっとずつ知らない世界を持つのが理想の夫婦だ」と言っていたのを今でもよく覚えている。彼と分かち合えないものがあることを、私は当然だと受け入れている。
「ごちそうさま」という恭平の言葉に私はうなずき、食べ終わったお皿を片付けるついでに、恭平を後ろから抱きしめた。すると、彼がいつも朝につけていくブルードゥシャネルとは別の香りがふわりと立ち込めた。甘ったるく、シナモンか何かのスパイスの混じったようなこの香りは女物で間違いない。けれど、浮気……ではないだろう、たぶん。
毎晩、嗅ぐたびに変わる香水について、私は一度も追及したことがない。単純に、疑っていると恭平に思われることが嫌だからだ。
人材派遣会社の社長をしている恭平は接待も多く、深夜や明け方に戻ってくることもざらだ。不規則な生活だよ、と結婚前に忠告を受けた。
けれど私は最近うすうす感付いている。
彼はもしかしたら特殊な仕事をしているのではないか、と。
なぜそう思うのかと聞かれると、それはもう女のカンと答えるしかない。ただ、人に言えない種類のものであるかもしれないと、根拠のない考えがたまに頭を過(よ)ぎるのだ。
恭平から、男の人が浮気した時に漂ってくる後ろめたさはまるで感じない。では浮気以外の一体何をしているのか。何度も考えを巡らせてみるけれど、とんと思い当たる節がない。聞いてみたいけれど、その後、何もかもが今までと変わってしまいそうで怖い。
結婚して二年も経つのに、私は恭平の心の奥まで踏み込めたことがないのだ。ぶつかって、関係性が壊れてしまうのが怖い。恭平だけではなくて、みんなに対してそうなのだ。私は、相手から打ち明けてくれない限り、誰かの心に踏み込めない。
恭平が抱えている秘密めいたものも、彼のほうから話してくれるのを待っている。
一番近くにいるのに大事なことを打ち明けてもらえないのは、とても悲しくて寂しく、心が縮んでいくようだ。
けれど、寂しいなんて思うほうが悪いのだろう。
幸せそうに見えても、いろいろ抱えている夫婦なんてきっとたくさんいる。みんな小さな不満をのみ込みながら幸せなふりをしているはずだ。不満のない人生なんて、ありえない。
テーブルの上には、昨日買ってきたばかりのガーベラの束がみずみずしく咲いている。あの花は四千円した。たった数日、二人しかいない家の中を彩るために払ったお金。誰もが出来ることではない。こんなに完璧ないい暮らしを私に与えてくれて、優しく、まめにラインを返してくれる仲良しの旦那。
不用意なことを言って彼を失うくらいなら、何も気づかないバカな妻を演じながらこのままずっと一緒にいたい。そのために、時に抱えきれなくなる寂しさは、いろんな方法で処理してみせる。私は私の世界や秘密を持てばいい。寂しさも処理出来ない女にはなりたくないし、寂しさってたぶん、暇だから生まれるのだ。
いずれ二人の間に子供が生まれたら、こんな些細なことで悩まなくてもよくなるだろう。妊娠・出産までのほんの一瞬の辛抱だ。
私はいつも通り自分の気持ちに折り合いをつけて、皿を洗い、花瓶の水を替えた。
恭平が湯船に浸かりたいと言うので、湯をためている。ぱりっと仕上げたパジャマに、海外製の柔軟剤をいれて柔らかく仕上げたタオルも添える。私はいい主婦だし、いい暮らしをしている。
──そういえば、鉄平君はちゃんと家に帰れただろうか。給料が安いから実家暮らしだと言っていた。自分の部屋はあるんだろうか。常に家族のいる家でも、寂しさを感じることはあるだろうか。一体何が彼を「ナンパ」に駆り立てるのだろうか。
外が思いのほか寒かったせいで、つま先が冷えている。今夜は私も、ゆっくりお風呂に入りたい。恭平のお風呂が終わったら、久々に半身浴でもしよう。お湯の中でいろんなものを溶かすのだ。
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つづきは、幻冬舎文庫『特別な人生を、私にだけ下さい。』をご覧ください。