現役の大学病院教授が書いた、教授選奮闘物語『白い巨塔が真っ黒だった件』。”ほぼほぼ実話”のリアリティに、興奮の声が多数。
第1章につづき、第2章「サイエンスの落とし穴」を6回に分けて公開します。
* * *
その頃のぼくは、まとまった休養と心療内科への通院のおかげで体調は回復していた。少しずつ仕事のことも考えられるようになり、書店の奥まった場所にある医学書コーナーにも足を運べるようになっていた。自分が経験した鬱の体験を活かし、と言っては変だが、寝込んでいた期間を少しでも無駄にしないように専門性を磨きたい。
そこで出合ったのが「心身皮膚科学」という聞き慣れない分野であった。
心と皮膚はつながっている。
ストレスを感じると肌荒れが起きるという経験は、誰でも一度や二度したことがあるだろう。しかし、医学研究において心と皮膚の関係はそれほど詳しく解明されていない。エビデンスが十分に存在しないブラックボックスの分野なのだ。数少ない専門書を読み解くと、やはりアトピーと精神疾患は深い関わりがある。「精神科的なアプローチをアトピー患者さんに行おう」と思いついたのは、自然なことだった。ぼくは皮膚科ではなく、しばらくの間、精神科の勉強をしてみたくなっていた。
しかし、すでに前野研のことで高橋教授には迷惑をかけた状態である。皮膚科から精神科への出向となると、また話が大事になることは想像できる。そこで、心身皮膚科学に詳しい皮膚科医がいる病院を自分で見つけ出し、大学院を辞めてそこで勉強させてもらえるように、こっそり準備していたのであった。
あの……とぼくが口を開く前に高橋は話し始めた。
「谷口先生が留学からK大学に戻ってくる。新しく研究室を立ち上げるから、大塚くんはそこで残りの大学院生活を送ればいい」
「はぁ」
「ぐっちゃんは知ってるだろ?」
高橋は親しみを込めて、谷口をぐっちゃんと呼んだ。
準備していた未来が大きく歪んだ瞬間だった。ただなぜか、高橋の提案に嫌な思いはしなかった。研究への未練もあったからだ。もう一度あの世界に飛び込んでみたいとすら思ってしまった。今度こそラストチャンスになるだろう。ぼくは谷口と以前交わした会話を思い出した。
●
谷口謙一郎はぼくの十歳上の皮膚科医で、K大学皮膚科のエースとして全国に名を轟かせていた。趣味は筋トレだったが、タンクトップを着て筋肉を見せびらかすようなタイプではない。スーツの下にその引き締まった筋肉を慎ましく隠し、ストイックに筋肉を痛めつけ、同じようにストイックに研究に邁進していた。大学院の卒業に合わせて数々の研究論文を発表すると、その研究的価値とインパクトで世界を驚かせた。
気さくな谷口はぼくら後輩の兄貴分で、ぼくらをきょうだいのようにかわいがってくれた。
それは、外来診療を終えた谷口が、ぼくら若手皮膚科医が集まる部屋に差し入れのチョコレートを持って顔を出したときのことである。ぼくはこのときまだ皮膚科医一年目であった。 ぼくたち皮膚科医一年目の同期は、一日の仕事を終え、いつものように病棟横にある八畳ほどの部屋に戻っていた。そこへ谷口がやってきたので、ぼくらは治療に困っている患者さんの相談をした。一通り答えてくれた後、谷口は言った。
「ところで、みんなは将来なにをしたいの?」
ぼくは学生時代に通い詰めた生化学教室での経験があったので、本格的に研究をしたいと考えていた。
「新しい薬を開発して、治せない病気を治せるようにしたい。そのために基礎研究を頑張りたい」
さらに続けた。
「役に立つ研究をしたいです」
谷口は椅子に深く腰かけ、なにか考えているようだった。
「うーん、今はそれでもいいと思うけど」
エアコンのジーッという機械音が部屋に響く。
「基礎研究というのはね、役に立つか立たないか考えない方がいいんだよ」 そう言って谷口は黙った。その続きはなかった。なかったというよりは敢えて言わないという雰囲気だった。同期の宇山がふーんと言って、谷口が持ってきたイチゴ味のチョコレートを口に放り込んで言った。
「オレは手術ができる皮膚科医になりたい」
ぼくは谷口の言葉の意図が分からずに考え込んでいたが、胸ポケットのPHSが鳴り、そこで思考は中断する。看護師の早口な報告に「はい、行きます」とだけ返事をして電話を切ると、イチゴの人工的な甘い香りが広がる部屋を後にして、入院患者が待つ病棟へと向かった。そのまま谷口とこの話の続きをする機会もないまま、彼は留学のためフランスへと飛び立っていった。
(つづく)
白い巨塔が真っ黒だった件
実績よりも派閥が重要? SNSをやる医師は嫌われる?
教授選に参戦して初めて知った、大学病院のカオスな裏側。
悪意の炎の中で確かに感じる、顔の見えない古参の教授陣の思惑。
最先端であるべき場所で繰り返される、時代遅れの計謀、嫉妬、脚の引っ張り合い……。
「医局というチームで大きな仕事がしたい。そして患者さんに希望を」――その一心で、教授になろうと決めた皮膚科医が、“白い巨塔”の悪意に翻弄されながらも、純粋な医療への情熱を捨てず、教授選に立ち向かう!
ーー現役大学病院教授が、医局の裏側を赤裸々に書いた、“ほぼほぼ実話!? ”の教授選奮闘物語。
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