一昨年の年の暮れ、つわりのさなかにハウスクリーニングの営業電話がかかってきた。ちょうど調味料の匂いが気持ち悪くて近づけなくなった台所をどうにかしてもらいたかったところなので、1000円のお試し価格でやってもらうことに。
やってきたのは体育会系さわやか営業マン。私が妊娠中であることを告げると、レンジを掃除しながら合成洗剤がいかに胎児に害をなすかを説き始めた。
「市販の洗剤は合成界面活性剤ですから、皮膚から浸透して子宮に蓄積されるんです。おなかに赤ちゃんがいる人は使わないほうがいいんですよ。出産のとき、羊水が洗剤の匂いがする妊婦さんもいるんです」
「はー」
「この資料を見てください。おそろしいでしょう(合成洗剤が原因という皮膚病の写真がわんさか)。アトピーの子が生まれる確率が増えているのも、界面活性剤の影響なんですよ」
「そうだったんですか」
「そこでうちはですね、電解水というものを使ってクリーニングしてるんです。この電解水をたらいに入れますね。さあ奥さん、手を付けてみてください。手から白いものが出てるでしょう。つけておくだけで汚れが落ちる。これで一度掃除すると1週間以上汚れを寄せ付けないので水拭きだけできれいになるんです。しかも温泉の成分と一緒なので、奥さんの手もきれいになる」
「…………」
頭の中をトンデモ警報がピコーンピコーンと鳴り響く。お兄さん、私の顔に「我輩はカモである」と書いてありますか。水にありがとうと言うときれいなゲーム脳になりますか。35歳を過ぎた陽水は腐ってもアンドレカンドレですか。
あからさまな擬似科学商売にたじろぐ私をよそに、営業マンはキラキラした瞳で雑談を繰り出してくる。
「奥さんち本がいっぱいありますね~僕は本全然読まないんですよ~江原啓之だけは読むんですけどね~妻と一緒にオーラを見る特訓してるんですけど難しいですね~ハワイのキラウエア火山に行くと誰でもオーラが見えるようになるらしいんで今度行ってみたいんですけどね~あ、そうだ奥さん僕に本をお勧めしてくださいよ」
「……ブラスト公論」
彼としては別にだましているつもりはないのかもしれない。むしろひどいのは私のほうかもしれない。
そういえば妊娠して以来、エコロジーだか自然育児だかスピリチュアルだかの名目で疑似科学に触れる機会が増えた。もともと女は科学的思考能力に劣るとされているうえに、ろくに経験のないまま育児の責任を一身に背負った女は不安だらけ。加えて妊娠・出産・育児にまつわる諸事は科学的に解明されていないことも多いため、妊婦と育児中の母親はうさんくさい業の人々にとって絶好のターゲットなのだろう。マタニティ・ヨガの教室でスピリチュアル系に勧誘されることもあるらしい。
たとえば自然分娩の体験エッセイ『贅沢なお産』(桜沢エリカ・著)にたびたび登場する「ホメオパシー」なる聞きなれない単語。アロマテラピーみたいなもの? と読み流していると、注に「同毒療法」とある。あ、思い出した。トンデモ批判本の先駆けであるマーティン・ガードナー『奇妙な論理1 だまされやすさの研究』で紹介されていた代表的な擬似科学じゃないですか。ある症状を治すために、その症状を引き起こす毒性の物質を薄めてレメディと呼ばれる砂糖粒に混ぜて飲ませるという療法で、もちろん科学的には立証されていない。二日酔いを迎え酒で治すみたいな理論なんだろうか。毒といっても分子が存在しないレベルまで希釈するから、基本的には無害らしいけど。
『奇妙な論理~』原著の刊行は1952年。トンデモ認定されながら50年以上生きながらえるとは、疑似科学の寿命の長さには驚くばかり。『贅沢なお産』では有名なカリスマ助産師が著者に勧めているので、妊娠・出産を機にホメオパシーに目覚める人も多そうだ。
ただ、なぜホメオパシーが一部ママさん界で熱いのか。母となった今はちょっとわかる気がする。母親の免疫が切れた赤ちゃんは熱を出したり鼻水を出したり咳をしたりでけっこう忙しい。ぐったりしているのでなければ医者に連れて行く必要はないと言われてはいるものの、新米ママとしては何もせずに放っておくのは罪悪感が募る。といって、いちいち病院に連れて行くと抵抗力の弱い赤子が待合室で別の病気をうつされてしまうかもしれない。小児科不足でどこも混んでいるし。そこでホメオパシー。砂糖粒を飲ませていればなんとなく安心するし、どのみち赤子の病気の多くは自然に治ってしまうのだ。ただでさえ少ない小児科の医療リソースを無駄遣いせずにすむ、という意味ではホメオパシーも有効なのかもしれない。中には病院に行くべき怪我でもホメオパシーに頼る母親もいるらしいから、擬似科学であることはもっと広く知られてもいいとは思うけれども。
と、こんな風に冷静ぶって書いている私も、逆子がなかなか治らなかったときはかなり動転した。逆子直し体操も逆子に効く鍼灸もまるで効かない。出産間際になっても治らない場合は帝王切開になるため、産科医に相談すると……。
「逆子が治らないということは、赤ちゃんがお母さんにメッセージを発してるのかもしれませんよ。これまでの生き方とか考え方を変えてほしいとか」
「そうですか……心当たりが多すぎて何から治せばいいのか」
「夫婦ゲンカがたえないとか」
「ケンカしたことないんですよ」
「たとえば、ご主人がおみやげを買ってきたのに下心を疑ってしまうとか」
「それもないです……」
「体が冷えたりはしてないですか」
「手足は熱いくらいなんですよね。だからこうやって胎児の頭があるあたりに手を当てると、赤ちゃんが熱がってドタバタするんです。これを繰り返せば、嫌がって頭を下にしてくれると思ったんですけど。頭寒足熱といいますし」
「いやいや、お母さんに手を当ててもらったら赤ちゃんは喜ぶんですよ。そこらへん、お母さんと赤ちゃんの間で意思の齟齬があるようですね」
「私が嫌がらせのつもりでやってたことが、実は喜ばれていたということなんですね。だから治らなかったんでしょうか」
「もっと赤ちゃんとコミュニケーションをとって、心を通じ合わせれば、お母さんの意思を汲んで回ってくれるかもしれません。今から赤ちゃんの意思を聞いてみましょうか(くさりがついた水晶のような鉱物を取りだし私の手のひらの上にかざす) 」
「うーん、とくにお母さんのほうに問題があるわけじゃないみたいですよ。単に逆子でいたいから逆子になってるだけで」
「ははあ」
妊婦、スピリチュアル初体験。あからさまに非科学的なことを言われてるのに、わらをもつかむ思いで聞いてしまう。現代医学に見放された患者の気持ちだ。結局、産科医の指示は「赤子が回るように説得しろ」。
ええ、実行しましたとも。ほかに私たちに何ができただろう? 逆立ちしながら「赤ちゃん、回ってー」と懇願する日々。「帝王切開が楽だと思ったら大間違いだよ。下から産まれてくるほうが、のちのちお互い楽だよ」「いま回ってくれたらいい乳飲ませるよ? 回らないとカレー食べながら授乳しちゃうよ?」とかんで含めるように説得もした。夫も逆立ち中の私の股間に向かって「赤ちゃんこっちだよーこっちに頭を持ってくるんだよー」と必死に呼びかける。あの当時、地上でもっとも間抜けな妊婦は間違いなく私だったろう。
実家の犬まで動員して説得にあたったが(犬は安産の象徴というし)、子は動じる気配もない。最終的にその医師の手で外回転術を施してもらって事なきを得たのだが。
よく考えれば(考えなくても)、胎児が日本語を解するわけがない。しかし説得の日々がまったく無駄に終わったわけではなかった。おかげで子供が生まれた後、なんのてらいもなく赤子に話しかけられるようになったのだから。いくら発達に必要だからといって、リアクションのない新生児に話しかけるのはぬいぐるみに話しかける不思議少女みたいで恥ずかしいと気後れするパパママも多い。その点、胎児を説得した経験を持つ私たちは怖いものなしだ(説得できなかったけど)。
なんとなくわかった、トンデモ科学が息が長い理由。この手の「結果オーライ」がいっぱいあるからなんだね。
文化系ママさんダイアリー
フニャ~。 泣き声の主は5ヶ月ほど前におのれの股からひりだしたばかりの、普通に母乳で育てられている赤ちゃん。もちろんまだしゃべれない。どうしてこんなことに!!??
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