新川帆立さんの野心作『女の国会』は政治をリアルかつ親しみやすく描いたノンストップ・ミステリ小説。
政治闘争に巻き込まれながら、自分の持ち場で踏ん張る女性たちの姿に、明日へのエネルギーをもらえます。
全六回の試し読み、第二回です。
* * *
2
議員会館から地下を通って、国会議事堂に入った。
入り口に設けられた登院表示盤には、議員の名前がずらりと並んでいる。「高月馨」のプレートは点灯していた。登院時にボタンを押すことで在席を示すシステムだ。
視線を滑らせ、「朝沼侑子」のプレートも点灯していることを確認した。
「お嬢」も登院しているわけだ。
これは波乱が起きるぞ、と覚悟した。
時刻は十二時ちょうど、委員会が終わった頃である。中央のエレベーターからは議員がわっと吐き出された。
その中に、痩せたパンツスーツの女がいた。高月である。
黒髪のショートカットで、丸眼鏡をかけている。遠くからでも、きりきりとした雰囲気が伝わってくる。
本人によると、少しでも印象を柔らかくしようと、スーツの色はいつもベージュにして、かける眼鏡も丸いものを選んでいるらしい。だが、骨ばった身体と高い頬骨のせいで、どこかちぐはぐな印象だ。
高月は一点を見すえ、大股で歩き始めた。
視線の先に、ピンク色のツイードスーツを着た朝沼がいた。
朝沼はいつもパステルカラーのツイードスーツだ。肩につくかつかないかくらいの髪には綺麗にカールがかかっている。笑うとえくぼができる丸顔は可愛らしい印象である。三世議員で、父の朝沼善一は首相経験者だ。だからなのか、三十一歳の初当選時から十五年経つ今でも、「お嬢」の愛称、あるいは蔑称で親しまれている。
「朝沼さん」
高月のよく通る声がした。朝沼はひらりと振り返った。
沢村は急いで高月に駆けよったが、とめる間もなく、高月は続けた。
「私、憤慨しています」
周囲の議員たちが立ちどまり、高月を見た。
ざわりと失笑が広がる。出たよ、憤慨おばさん、と誰かが言った。議員たちは一斉に顔を見合わせ、ニヤニヤと、粘り気のある笑みを交わす。
高月は周囲を一瞥すると、
「何がおかしいんですか?」
と眉をひそめた。
「私は腹を立てているんです。怒っている人がそんなに面白いですか」
問いに答える者はいなかった。
高月のあだ名は「憤慨おばさん」である。「憤慨しています」が口癖だからだ。
痩せっぽちの四十六歳女性が、顔を真っ赤にして「憤慨しています!」と叫ぶ。その様子が面白おかしくテレビで取りあげられ、ネットでおもちゃにされている。
滑稽なほど純粋で熱心な人だから、そうでない人たちからすると、おかしくて仕方ないのだろう。
高月は朝沼につめよった。
「特例法、総務会を通らなかったんですって? どういうことですか? 幹部への事前説明はすんでいるとおっしゃっていましたよね」
朝沼は顔を青くした。「いや、それが」と言葉をつまらせ、下を向く。
「どういうことですか。きちんと説明してください」
二人の周りから人が引いて、円形の空間ができあがっていた。
議員たちは二、三メートル離れたところから、ちらちらと二人を見ている。助け船を出す者はいない。ただ、意味ありげな視線を交わしたり、薄ら笑いを浮かべたりしている。意地悪だと思った。
高月も高月で、電話で話すとか、議員会館に戻って個室で話すとかすればいいものを、こうして正面切って問いつめてしまう。あえてそうするのは、コソコソせずに、皆の前で問いただしたほうがいいと思っているからだろう。
「すみません。三好幹事長が急に反対にまわったんです。事前説明のときは反対しなかったのに」
「えっ? よりにもよって三好さん?」
高月が素直な反応を見せた。
三好顕造は、御年八十三歳にして、国民党の第四派閥「清香会」、通称「三好派」のトップである。四十人ほどの派閥だが、三好本人の立ちふるまいの巧妙さにより、独自の権力を握っている。
「朝沼さんも三好派でしょ。自分の派閥のトップも説得できていなかったの?」
高月の言葉に怒りがにじんでいた。
性同一性障害特例法は、いくつかの国際機関から「人権侵害の恐れがある」旨の勧告を受けている。その後、最高裁で違憲判決が出たことを契機に、法改正の動きが加速した。とはいえ一部の議員から強烈な反対を受け、実際の法改正は困難を極めた。
今回の超党派議連でも、丸一年をかけて話し合いと調整を続けてきた。
国民党内での調整は、国民党側のとりまとめ役である朝沼が一手に引き受けていた。
朝沼は、三好顕造の息子、参議院議員の顕けん太た 郎ろうとの熱愛報道がある。自分の派閥のドン、しかも義父になりうる人にすら根まわしができていないのは、確かに不自然だった。
「あなた、この法案を通すつもり、本当にあったの? 最初から潰すつもりで参加していたんじゃないわよね」
朝沼が首を横にふった。おびえた小動物のように、わざとらしく身を縮めている。
「とんでもない。私は私なりに、必死に」
「あなたの必死って、その程度なんですか?」
「いえ、本当に」朝沼は肩を小刻みに震わせた。「私は、本当に、一生懸命だったんです」
朝沼の目に涙がたまっていた。
くるぞ、と思ったときには、朝沼はさめざめと泣き出していた。
高月は腕を組んでため息をついた。
朝沼のもう一つのあだ名は、「ウソ泣きお嬢」である。答弁中や演説中によく泣くことからつけられた。
「突然だったんです。三好さんがどうして反対にまわったのか、私にも分からなくて」
高月は呆れたように首をかしげると、いくぶん落ち着いた口調で言った。
「まだ会期は残ってる。スケジュールは厳しいけど、もう一度、三好さんと話してみてくれる?」
朝沼は涙をぬぐいながらうなずいた。
見ていた男性議員の一人が「怖いねえ」と冷やかすように言った。
高月はすぐさま彼をにらみつけ、
「そんなに怖がりさんなら、議員やめちゃえば?」
とかみついた。
男性議員は鼻白んだように口元を歪ゆがめて「まあまあ、落ち着いて」と言った。にやけた顔を隣の別の男性議員に向けて「ヒステリーかよ」と小声でもらし、含み笑いを交わした。
高月は片眉をあげただけで、それ以上相手にしなかった。
話が終わる潮時を見計らって、沢村は高月に「先生」と声をかけた。
「次のご予定が」
高月と沢村は連れ立って歩きだす。
廊下の先の記者控室から、数人の新聞記者が顔を出していた。
「また、変な記事を書かれますよ。今日のうちにオンライン記事の一本や二本、出ちゃいます」
沢村が声をひそめて言うと、高月はなぜか得意げな笑みを浮かべた。
「見出しはきっと、『憤慨おばさんVSウソ泣きお嬢 女同士の対決の行方は?』とか、そういうのだよ。どうせ」
参議院議員のうち女性は二十五%程度、衆議院になると十%未満だ。女同士の対決というだけでニュースになる。
うんざりしながら沢村は言った。「女、女って、キワモノ扱いして、何かあればすぐに揚げ足をとってやろうと待ち構えている。減点法で、こきおろしてばっかり」
「仕方ないよ」
と、高月は屈託なく、白い歯を見せて笑った。
「それが民主主義だからさ」
高月は事務所に戻って荷物をつかむと、椅子に腰かける間もなく出ていった。
議員会館からのびている地下道を通って、国会議事堂前駅に向かうはずだ。東京駅に出て、そこから電車で一時間半ほどゆられ、地元のA県へ行く。
この日は金曜日だった。午後に委員会は入っていない。地元の懇親会を三件ハシゴする予定だ。
明日、土曜日には花見会二件、花まつり一件に顔を出し、ダム協会の総会に参加して、農協の懇親会でお酌をする。日曜、月曜も同様に予定がつまっている。
最近はそれでも、落ち着いているほうだった。夏には、一日十数件の夏祭りに顔を出すこともある。
金曜日の夜から火曜日の朝まで地元ですごす。火曜日の朝、駅前で街頭演説をしてから東京に戻り、そのまま登院する。衆議院議員の平均的な動きかただ。
高月は初当選してから十八年間、この生活リズムを守っている。土曜日から火曜日までの週四日は、必ず街頭演説に立つ。演説の内容は何でもいいという。ただ「いつもいる人」「いつも頑張ってるな」と印象づけることが重要だ。
火曜日から金曜日までの永田町滞在期間には、一日十件以上、週に五十件から六十件の会議に出ている。そのあいまにも、党務をこなしたり、陳情にきた人の対応をしたりする。
お昼は弁当をとって、会派のメンバーとランチミーティングをすることが多い。
官僚からレクを受けたり、国会図書館の調査室に問い合わせたりして、政策について勉強する時間も必要だ。
目のまわる忙しさのなかでも、先輩議員や地元関係者に悪い顔はできない。くたくたになって事務所に戻り、秘書のミスを発見したら、つい暴言を吐いてしまう者もいる。その暴言が週刊誌に流出し、スキャンダルになるところまでがセットだ。
高月はまだいいほうだった。
疲れきって不機嫌になることはあっても、暴言を吐いたり、無茶を言ったりはしない。言葉は多少とげとげしいが、秘書に対してだけでなく、先輩議員に対しても同様だった。高月は常にうっすら怒っている。ある意味、情緒は安定していた。
前に事務所の飲み会で聞いたことがある。高月は、十八年前の初当選からずっと、生理がとまっているらしい。常に臨戦態勢で突っ走ってきた。パートナーも子供もいない。いるのは年老いた父母だけだ。介護が必要になったら、どうするつもりだろう。
女の国会の記事をもっと読む
女の国会
国会のマドンナ”お嬢”が遺書を残し、自殺した。
敵対する野党第一党の”憤慨おばさん”は死の真相を探り始める。
ノンストップ・大逆転ミステリ!