恋とは、落ちるもの――。そうなったらその苦しみ、募る思いをコントロールできるのでしょうか? 渋谷で30年近くバーを続ける林伸次さんによる短編集『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』より、不思議さと切なさがいりまじるお話をどうぞ。
夜の闇になった王様の恋
世界中の夜を集めさせた王様がいた。
王様は自分が醜いと信じていた。
この世界に完璧な美しさというものはない。美の基準は時代によっても地域によっても違う。ときには相対的でもあり、個人的な体験でもある。
人は誰か他の人に「あなたは美しい」と言われて、初めて自分の美を知る。
美しさは、この世の中にはどこにも存在しない。誰かが「美しい」と感じたときだけ、その人の心の中に「美しさ」が発生し、それを他の誰かに告げた瞬間に、その言葉を聞いた人の心の中に「美しさ」が伝染する。
王様がまだ四歳で王子だった頃、母が父に「あの子がもうちょっときれいな顔をしていれば」と言っているのを耳にした。
四歳の王子は自分の部屋に戻って、鏡の中の自分を見た。昨日も一昨日も見たはずのいつもの自分の顔があった。いつもどおりの自分だ、この顔はきれいじゃないのだろうかと思った。そう悩んでいる四歳の王子の顔はとても悲しそうだった。
それから五年後、王子が九歳の時、二歳年下の妹が、妹の友達に「私の兄はいずれ王様になるんだけどもっとかっこよかったらなあ」と話しているのを耳にした。
王子はまた自分の部屋に戻って、鏡の中の自分の顔を見た。王子はもう九歳になっていたから周りの大臣の息子や、騎士の息子たちを見て、自分はもしかして醜いのではと感じ始めていたのだが、やはりそうなのかと思い自分の顔を見た。鏡の中の自分は何かをあきらめ始めている表情をしていた。
王子は母と妹が自分のことを深く愛してくれているのをわかっていたので、二人が自分のことを醜いと思っていることが少しずつ王子の心の中に沈殿していった。
やがて王子は青年になり、近隣諸国の王侯貴族が集う夜会に出席することになった。
夜会は隣国である花の国の城で行われた。花の国の人たちは王族から国民すべてがそれぞれ何か花のモチーフをあしらった服を着ることになっていた。
王子も何かひとつ花を選んで、そのモチーフの服を着て夜会にいどまなければいけなかったので、自分にはどんな花が似合うのか、妹に相談してみた。
妹はしばらく考えた後、「お兄さんには金木犀が似合うんじゃないですか」と提案してくれたので、王子は家来たちに「金木犀がモチーフの夜会服を作ってください」と告げた。
深い緑と焦げ茶色が基調で、ところどころ小さなオレンジ色の花びら模様があしらわれた燕えん尾び服ふくはなるほど、王子によく似合った。王子が歩いた後は少しだけ金木犀の残り香がただよった。
王子は生まれて初めて、自分の装いに自信のようなものを持ち、花の国の城へと向かった。
花の国の城の入り口には桔き梗きようがモチーフの青と緑の制服を着た近衛兵が十人くらい整列していて、王子と妹が入場すると静かに敬礼した。
夜会の会場である大広間では、各国の王侯貴族たちが色とりどりの花のモチーフの燕尾服やイブニングドレスで着飾り、話に花を咲かせた。
妹はさっそく知り合いの姫たちを見つけ恋の話や噂話を始めたが、王子はこんな華やかな場所が初めてだったので、勝手がわからず花びらがちりばめられたカクテルを片手に、壁にもたれかかり美しい人たちが談笑するのを眺めた。
やがて楽団がセレナーデを奏でだすと、大広間の奥の大きな扉が開き、花の国の王様と、その姫が登場した。王様はこの国の象徴である青いバラのコートを着て、低く落ち着いたよく通る声で地域の平和と発展を祈り、夜会が初めてである姫を紹介した。
姫は白い柔らかな素材のドレスを着ていて、みんなが「何の花だろう」と考えると同時に、あたりにクチナシの香りがただよった。クチナシの姫は恥ずかしそうに、今夜集まってくれた人たちへの感謝の言葉をのべ、そして白いクチナシのドレスのすそを広げ、深々と頭を下げた。
その瞬間、大広間にいる多くの王子や騎士たちがクチナシの姫に恋心を抱いた。
壁際でそれを眺めていた、自分のことを醜いと信じ込んでいる金木犀の王子も恋をした。そして王子にとってそれが最初で最後の恋だった。
クチナシの姫はすでに盛り上がっている夜会の中に入っていき、その夜の新しい花となった。
クチナシの姫の周りには多くの若者が集まり、それぞれの国のしきたりで自己紹介をした。一目でひまわりとわかる服を着た遠い南の国の王子がクチナシの姫を踊りに誘った。
楽団がワルツを奏で始めると、それにあわせてクチナシの姫とひまわりの王子が踊り始めた。おとなしそうに見えたクチナシの姫は意外にも、プロの踊り子も顔負けのステップを踏み、周りからは感嘆の声があがった。ひまわりの王子も負けていなかった。南の国で流行っているのであろう新しいステップで姫に応え、ワルツは二人をさらに盛り上げた。
音楽と踊りが終わると、クチナシの姫のところには各国の華やかな姫たちが「わっ」と集まってきて、今踊ったステップや着ているドレスについてや今まで恋をしたことはあるのかといった質問を次々に口にした。
金木犀の王子はその姿を壁の方から眺め、まるで夢を見ているみたいだと思った。クチナシの姫が笑ったり、みんなにステップを教えたりしているのを見て、こんな女性が世の中に本当に存在するんだと思った。
金木犀の王子は、ただただクチナシの姫を眺めているだけだった。まさか彼女に話しかけようなんてことは思いつくはずがなかった。彼女が笑い、彼女の笑顔に呼応するように彼女の周辺が光り輝くのを見ているだけでため息が出た。
楽団が夜会の終わりを告げる音楽を奏で始めた。夜会に参加した王侯貴族たちは、それぞれに挨拶をし、握手を交わし、大広間の外へと向かった。
妹が金木犀の王子を見つけ、「帰りましょうか」と声をかけた。王子は「そうですね」と答え、クチナシの姫を最後にしっかりと見て、心に刻んだ。
そんな姿を見た妹は、王子のクチナシの姫への恋心に気がついた。妹は「クチナシの姫が気になるのなら、最後にお別れの挨拶でもしてきたらどうですか。なんなら私が間に入ってあげましょうか」という言葉が喉元まで出かかったのだが、こらえた。王子が、クチナシの姫と上手に話せるとは思えなかったし、もし話せたとしても、王子がこれ以上クチナシの姫に本気になっても、恋が成就しないのは目に見えていたからだ。妹として兄の王子が苦しむのは見たくなかった。それは妹の優しさだった。
二人は無言のまま城を出た。馬車に乗っても王子は一言も話さなかった。妹は「やっぱり花の国の夜会は華やかですね。お兄さんのその金木犀の服、良かったんじゃないですか。また今度来るときもその金木犀の服にしましょうか」と言った。王子は妹の方を見て、「そうですね」と少しだけ笑った。しかし王子がその花の国の城を訪れることは二度となかった。
自分の国の城に戻ってきた王子は自分の部屋のベッドに寝ころんで目を閉じ、クチナシの姫のことを思った。彼女がドレスのすそを持ち頭を下げた瞬間のこと、彼女がワルツにあわせてステップを踏み始めたときの表情、思い出せる限りの彼女の笑顔や上品なしぐさを頭に浮かべた。
クチナシの姫は、王子の心の中で何度も何度も笑って、ワルツにあわせて踊った。王子が目を開けると彼女は消えて、ベッドから見上げる天井があった。王子は大きなため息をついて、どうしようもないんだと思った。
またいつもの日々が始まった。
王子は食事をしているときも、大臣たちと国の政治や公共事業のことを話している間も、ぼんやりとしていて、周りが何を聞いても、「ええ」とか「はい」とか答えるだけだった。
元から引っ込み思案なところはあったが、どんな会合でも真面目に人の話に耳をかたむけていた王子を知る周りの人たちは、とても心配になった。
妹だけはその理由がわかっていた。しかしその理由をみんなにあかしたところで、王子の気持ちが変わるわけでもない。あるいはこの国の大臣たちがクチナシの姫を王子と結婚させようと画策しても、それは無理な話だということもわかっていたので、妹は何も言わなかった。
そして、クチナシの姫の結婚が決まったという話が、王子の耳に入ってきた。その話を聞いた王子は、しばらく言葉を失ったが、やがて気を取り直した。
彼女の結婚が決まったのなら、喜ばなきゃいけないはずなのに、それで落ち込むなんて。まるで自分は彼女との結婚を心のどこかで期待していたみたいだ、そんなありもしない夢みたいなことをどうして自分は心の片隅にでも思っていたのだろう、自分はこんなに醜いのに、と王子は反省した。
クチナシの姫の結婚が決まってから、妹が気を利かせ、王子のところに、他の国の姫との結婚の話をいくつか持ってきた。
しかし、王子はすべて断った。
妹が王子の部屋にやってきてこう問いつめた。
「結婚の話、全部断ってるそうじゃないですか。お兄さんはいずれはこの国の王様になるんですよ。いったいどういうつもりなんですか?」
王子はこう答えた。
「私の妻になる女性はかわいそうです。彼女たちも政略結婚だということは理解していると思いますが、こんな醜い男の妻になって一生を共に暮らそうとは願っていないでしょう。私はこのまま独身で過ごします。私の次の王の座は、あなたにたくします。そしてもしあなたにお子様が出来なければ、誰か優秀な人間をこの国の中から選び、その者をその次の王にしましょう」
王子の真剣な表情を見ると、妹は何も言えなかった。
「申し訳ありません」と王子が言うと、妹は部屋を後にした。
王子は久しぶりに鏡の中の自分の顔を見た。そこには以前より、少しだけ表情の明るい青年の顔があった。
父が死に、王子は王様になった。
王様になると、周りの大臣たちに、自分は結婚はしないということ、自分の次の王は、妹か、あるいは妹の子供か、あるいはこの国の中の優秀な人間を選ぶことにしようと思っている、と伝えた。
大臣たちはそれぞれが反対意見をのべたが、王様はそれを制し、「もう決めたことです。申し訳ないがこれは私の初めての王としての命令です。みんなわかってください」と告げて、自分の部屋に戻った。
その夜から、王様は詩を書き始めた。
自分の部屋に閉じこもり、すべての灯りを消した。目を閉じると、暗闇が増し、王様は自分の心の中だけを見つめた。浮かんでくるのは、クチナシの姫のあの笑顔ばかりだったのだが、やがてそのクチナシの姫の面影が夜の闇の中にとけ込み、王様だけの言葉が浮かび上がってきた。
王様は、その自分だけの言葉を拾い上げ、夜の闇の中に自由に、そして大胆に並べていくと、やがて小さな詩になった。王様は正直なところ、ホッとした。彼女の面影が王様の心の中をずっと支配していたのだが、その面影を夜の闇の中にとけ込ませ、それを言葉にして、小さいながらも詩というものにすると、心が少しずつ晴れていくのがわかったからだ。
その初めてつくった小さな詩を、暗闇の中で紙に書き留めた。
王様の小さな詩は、直接的ではなかったがクチナシの姫への恋の詩だった。
もう結婚している女性への片思いなんて醜いものだ、こんな風に自分に一方的に思われても、クチナシの姫は気持ち悪いだけだろうと王様は最初のうちは思っていたが、詩にすると、片思いは透明で静かになった。
王様は、初めてつくった詩を何度も口ずさみながら、夜の闇の中に心を戻し、やがて眠りについた。
王様が次の日の朝に目を覚まし、机の上にある紙に書いた小さい詩を読むと、昨日の輝きが少し失せていることに気がついた。昨日は確実にあのクチナシの姫の笑顔が王様の詩の中に感じられていたのに、今、目の前にある詩の中のクチナシの姫は笑っていなかった。
朝食のとき、ため息ばかりついている王様に対して、妹がこう注意した。
「お兄さん、悩むのはいいけど、朝からそのため息はやめてもらえますか」
「ああ、ごめんなさい。昨日の夜、詩みたいなものを書いてみたんです。自分で言うのもなんですが、意外とよくできていて。でもさっき朝の光の中で読み直すと、どうもその詩が色あせてしまっていて」
「そうでしたか。そういうことでしたら、博士に相談してみればいいんじゃないですか」
この国には世界的にも有名な博士がいた。年老いてはいたが、博士はかつて全世界の飢き饉きんを助けた、日照りや害虫に強い新しい種類の小麦を作ったことでその名をとどろかせていた。
博士の専門は、光や風の力を集めて利用することだった。太陽の光を集めて動く機械を作ったときは魔法使いだと言われたこともあったし、世界中の風を集め始めたときは、ついに気が狂ったともささやかれた。
しかし国中の人たちが博士のことは尊敬していたし、王様も博士のことが大好きだった。
王様は博士の部屋へ行き、扉を叩いた。
博士は、ちょうど、月の光を集めてそれを電球にすると、人の心にどんな影響があるのかという実験の準備をしているところだった。
「すいません。突然、来てしまって。あ、作業は続けてください」
博士は「いえいえ。王様が私のところに訪ねて来てくれるなんて、まだお若いときに、『この国の貧乏な人をどうやったら豊かにできるんだ』って相談に来てくれたとき以来です。またこの爺に会いに来てくれて嬉しく思います」と笑顔を見せた。
「そう言えば、そんなこともありましたね」
「はて、王様、なにやらせっぱつまった表情をしていますが、何があったのでしょうか。この爺にできることでしたら、なんでも相談してください」
「そのことですが、博士、実は昨日の夜、私は部屋で詩を書いたのですが。夜の間はとても美しい詩だったのに、朝起きてその詩を読みかえすと、その詩が色あせていました。その詩を朝になってもずっと美しいままでとどめるにはどうすればいいのでしょうか?」
「夜ですね。王様、すべては夜なんです」
「すべては夜……」
「はい。恋もキスも愛の囁きも、すべては夜のせいです。そしてその思いは夜が濃くなればなるほど、純度が増していきます。
王様の詩をもっと美しくするには、朝になっても色あせない深くて濃い夜の闇がたくさん必要です。もし必要とあらば、この爺が世界中から夜を集めてみせましょう」
「世界中から夜を集める……。博士、それは助かります」
博士は助手たちを呼び、数式を書いた紙をそれぞれに手渡し、その数式の意味を解説した。助手たちは博士に「かしこまりました」と答え、王様の方に向き、「私どもが責任を持って世界中から夜を集めて参ります」と深々と頭を下げた。
その日から王様の部屋には世界中の夜が集められた。月の明かりもない砂漠の冷たくて乾いた夜、波一つない濃い群青色の大海原に冷たい雨が降りしきる夜、戦争が終わった後の廃墟の街の夜、さまざまな世界中の夜が王様の部屋に運ばれてきた。
王様の部屋の中の夜の闇は日々濃くなっていった。王様は暗闇の中でたくさんの片思いの詩を書いた。王様の心はやっと晴れわたってきた。クチナシの姫の面影は全て詩の言葉の中にとけ込み、苦しくて切ない気持ちや、自分の醜さのことも、少しずつ忘れ始めた。
その完成したたくさんの片思いの詩に、博士が世界一優秀な作曲家を遠い北の国から呼びよせて曲をつけさせ、世界一の歌い手を遠い南の国から呼びよせて歌わせた。博士にも、作曲家にも、歌い手にも王様の部屋の闇が毎日濃くなっていくのがわかった。
夜の闇が濃くなると王様の詩はさらに自由になれた。王様から言葉はあふれだし、作曲家がそれを拾い集め曲にして、歌い手が声にした。
ある日、王様の詩は翼を得て部屋の外にまで飛び出した。驚いたことに王様の詩は外の昼の光にさらされても美しさは消えなかった。王様は本物の詩人になったのだ。
王様の詩は、メロディーをたずさえて、国のいたるところに響きわたった。農作業をしている畑のあぜ道で、工場の機械を動かす人の手元で、陽の光を浴びた洗濯物のそばで、王様の詩は流れた。
国民たちは、その王様の片思いの詩を聞いて、私たちの王様がこんな美しい詩を書いたんだと聞きほれた。王様の片思いの詩は、国民たちみんなの心に響いた。
大臣や博士、そして妹も、王様の片思いの詩を聞いて、少し涙ぐんだ。
その国の人たちのすべてが、自分たちの王様が本物の詩人になったのをとても誇りに思った。
城中の人、すべての国民たちが、王様が世界中の夜を集めた部屋から出てくるのを待った。王様がみんなの前で、詩を朗読するのを待った。
しかし王様は昼の世界には出てこなかった。王様は夜の闇になってしまった。
王様が書いた詩も夜の闇になった。王様と詩が闇になった後、闇は部屋の外にとけだし、世界中に王様の詩は流れた。そして、あのクチナシの姫のところにも、王様の片思いの詩は少しだけ流れた。クチナシの姫は、それを聞き、なぜだかわからずに少しだけ涙ぐんだ。
世界中に流れた王様の夜の闇の片思いの詩。
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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