先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんの作品『インターフォン』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作は団地で巻き起こる様々な事件や歪な人間模様を描いた10本の短編ミステリです。
今回は短編のひとつ『妹』の冒頭をご紹介します。
* * *
妹
盗み聞きするつもりなどなかった。まさか内緒話をしているとは思わなかったのだ。「ねえ、ちょっと聞いてよ」という声が自転車置き場のほうから聞こえてきても、郵便受けから取り出したばかりの暑中見舞いはがきを読むのに熱中していられた。
どうして、おばさんたちは他人に聞かれて困る話ほど大声でしゃべるのだろう。それも、誰が聞いているかわからないような場所で。希美の母親も、ベランダの窓を全開にしたまま、大声で長電話していたりする。
だから、困ったことや悩み事は間違っても母親や先生にしゃべってはならないのだ。一言でも漏らせば、数日後には学校じゅうに知れ渡ってしまう。
「……からね、困っちゃったのよ」
「そりゃそうよねえ」
「最近の小学生って怖いわね」
希美は今まさに話題になっている「最近の小学生」だ。そうなると、ますます姿を見られるわけにはいかない。自転車置き場から見えないように、集合ポストの陰にしゃがんで息を殺す。
こんなことなら、さっさとエレベータに乗ってしまえばよかった。母親に見られたくないはがきを抜き取るくらい、五階に着くまでの間にすませられる。
つい聞き耳をたててしまったのは、「うちの子、お金とられそうになったのよ」という言葉が聞こえたからだ。場所は、団地のすぐ近くのスーパー「よしだや」だという。買い物客のほとんどが団地のおばさん、レジの店員もほとんどが団地のおばさんだった。そして、団地の子供たちのほとんどが、よしだやで「初めてのおつかい」をする。
「でも、ちゃんと返してもらえたんでしょ。不幸中の幸いじゃない」
「今回はね」
耳もとで蚊の羽音が聞こえる。膝の裏側が汗でべとついて気持ち悪い。手を振り回して蚊を追い払う。
「じゃあ、初めてじゃないの」
「いえね、証拠があるわけじゃないのよ。でも、少し前にもお釣りが足りなかったことがあるの。そのときは十円だったから、落としたんだと思って、子供を叱ったのよ。変だと思わないでもなかったんだけどね」
「ナミちゃんも災難だったわねえ」
お金をとられたのも、とったのも団地の子らしい。誰だろう。汗をTシャツの袖で拭いながら、希美はひたすら耳を澄ませる。
もっとも、公立ではなく私立の小学校に通う希美は、団地の子の顔をあまり知らない。同じ棟の六年生の女の子がせいぜい、男の子となると全滅だった。公立に通う妹がもっと友だちづきあいの上手なタイプなら、団地の二年生の顔くらい覚えただろうとは思う。
「親御さんは知ってるのかしら」
「知ってたら、何か言ってくるでしょ」
「きっと目が届いてないのね。夏休みだから」
「うちも気をつけなくっちゃ」
「タツヤくんはしっかりしてるから」
社交辞令と誰にでもわかる言い方だった。次の言葉は聞かなくてもわかる。あらぁ、おたくの××ちゃんだって、とかなんとか。希美は外に聞こえないように小さくため息をつく。集合ポストの陰は風通しが悪く、蒸し暑い。早くどこかへ行ってくれたらいいのに。
「意外よねえ。レイカちゃんみたいな子が」
耳を疑った。聞き違いではないかと思った。妹以外に「玲香」という名前の女の子がこの団地にいるのだろうか。
「あら、おとなしい子って、陰で何やってるかわからないって言うじゃない」
「おねえちゃんの入れ知恵かもね。ほら、私立だし、頭いいんでしょ」
再び蚊の羽音が近づいてきたが、動けなかった。
「お受験なんかさせるもんじゃないわね」
「きっとストレスたまってるのよ」
ねえ、という笑い含みの声と自転車のスタンドを跳ね上げる音とが耳障りに響く。話し声が聞こえなくなっても、希美はしばらくその場にうずくまっていた。
「遅かったわね」
ドアを開けるなり、猛烈に後悔した。
「うん。まだ配ってる途中だったから、ポストのとこで待ってた」
「部屋番号言って、先にもらってくればよかったのに。何か来てた?」
「クラスの子から暑中見舞いと、なんかのダイレクトメール」
暑中見舞い状は抜き取って隠しておくつもりだったのに、すっかり忘れていた。いやな立ち話を聞かせてくれたおばさん二人を希美は恨んだ。
「見せてごらん」
ダイレクトメールの封筒といっしょにはがきを差し出す。六年生ともなれば、友だちづきあいの中に母親が乱入してくるのは迷惑以外の何ものでもない。どうして、電話に聞き耳をたてたり、郵便物をいちいちチェックしたりするのだろう。
そのくせ、玲香には学校のことや友だちのことを訊こうとしない。自分を満足させるような話が決して出てこないことを母親は知っているのだ。下手につつけば、仲間はずれにされただの、誰それに馬鹿にされただの、その類の話ばかりを聞かされることになる。
「なあに、このトモキとマツオカって」
「ジュニアの新しいメンバーだよ。おかあさん、こないだも同じこと訊いたよ」
「そうだったかしら」
嘘だ。トモキというのは希美が片思いしてる中学生、マツオカというのは親友の知沙が塾でヒトメボレした相手だった。偶然にもトモキは知沙のお兄さんの友だちで、マツオカは希美と同じ団地のA棟に住んでいる。知沙はお兄さんからトモキのことをいろいろ訊き出してくれたし、希美も子供会名簿でマツオカの住所と電話番号を調べて、知沙に教えてやった。
でも、馬鹿正直にそんなことを話すわけにはいかない。母親には、好きなタレントの名前ということにして押し通すつもりだった。
「雑誌の切り抜きとか交換する約束になってるんだ。おかあさん、新聞にちょっとでもジュニアが出てたら教えてよね」
はがきの「情報交換ヨロシク」という文章を解説する。訊かれる前に説明したほうが余計なツッコミを入れられずにすむ。
「ええと、トモキにマツオカだっけ」
「そこまで覚えなくていいよ。ジュニアだけで。どうせすぐ忘れちゃうんだから」
希美におばさんの見分けがつかないように、母親には若い芸能人や小学生の見分けがつかない。
「ピアノの練習、早くやっときなさいよ」
「先に宿題やる」
「じゃあ、ついでに玲香の宿題も見てやってちょうだい」
わかったとだけ答えると、希美はさりげなく電話台から子供会名簿を抜き取り、居間から退散した。
子供部屋では、玲香が漫画雑誌にうつぶして眠っていた。本はおろか、漫画も数ページで頭が追いつかなくなるらしい。
ぐずでのろまで、不器用で。玲香はかわいそうなくらい頭が悪い。運動神経も壊滅的に鈍く、歌も下手くそ、絵も下手くそ。玲香に友だちがいないのは、引っ込み思案だからじゃないと希美は思う。きっとクラスの誰からも相手にされていないのだ。
さっきのおばさんたちは肝心なことがわかっていない。いくらそそのかしたって、玲香にカツアゲやタカリの類は無理だ。それだけの能力があるなら、希美と同じ「お受験塾」に通っていて、同じ学校の入学試験を受けていただろう。
居間から持ち出してきた子供会名簿を開く。おばさんたちの会話に出てきた「ナミ」という子を捜そうと思ったのだ。同じD棟の子供だということはわかっている。学年は玲香と同じ二年生か、一年生。いくらなんでも年上の子のお金をとるのは無理だ。
子供会名簿に希美の名前はない。玲香の兄弟姉妹の欄は空白になっている。子供会は団地の子供のためのものではなく、校区の公立小学校に通う子供のためのものだからだ。
四月になると新入生歓迎会、七月は納涼会、八月はバスハイク、十二月はクリスマス会、三月は送別会。そういった行事に参加するのも玲香一人だった。おばさんたちも、団地の子供たちも、玲香の顔なら知っているけれども、希美のほうはわからないだろうと思う。
制服姿か、玲香を連れているかすれば「宮川さんちの希美ちゃん」でいられるけれども、私服で一人なら「あんた、どこの子?」となるに違いない。父親のゴルフバッグに制服をかぶせてエントランスに置いたら、「希美ちゃん、こんにちは」なんて声をかけてくるおばさんもいそうな気がする。
希美は小さくため息をつくと、名簿のページをめくった。今年の低学年は人数が少ない。めざす名前はすぐに見つかった。
山形千奈美。玲香と同じ二年生。これだろう。陽奈、美緒、絵里、知花……。他に「ナミ」と呼ばれそうな子はいない。念のために「タツヤ」という子も捜してみると、二人いた。一年の鈴木達弥と、二年の吉井辰也だ。
どんな子だろう。男の子二人はもちろんのこと、山形千奈美の顔もまるっきり思い浮かばない。少なくとも希美が自宅にいる時間に玲香が友だちを連れてきたことはないし、玲香の口からよその子の名前が出ることなどめったにない。もともと玲香は無口なのだ。
「玲、起きて」
揺さぶると、玲香はむくりと顔を上げた。雑誌にふせていたせいで頬が黒く汚れている。
「ちょっと訊きたいんだけどさ。山形千奈美って子、あんたと同じクラスの」
玲香はゆっくりと瞬きをした。ばさばさと音がしそうなほど長いまつげが上下に揺れる。とんでもなく頭は悪いけれども、顔はけっこう可愛い。姉のひいき目ってやつだけではないと思う。
「ナミちゃん、どうかしたの」
けれども、口を開くと全部ぶち壊しになる。牛があくびでもするような、間の抜けたしゃべり方なのだ。
「あんた、ナミちゃんとは仲いいの」
口を半開きにしたまま、玲香は首を傾げた。質問の意味が呑み込めないらしい。だめだ。もっとわかりやすい訊き方をしないと。
「昨日か一昨日、ナミちゃんと遊んだ?」
玲香が左右に首を振った。
「じゃあ、昨日も一昨日も、ナミちゃんには会ってないんだね」
玲香はまたもや左右に首を振る。
「いったいどっちなわけ。会ったの、会わなかったの」
「会った」
わかった。玲香は「会ったけど、遊んではいない」と言いたいのだ。苛立ちを抑えて、どこで会ったのかとたずねる。
「よしだや」
瞼が全開になるのがわかる。本当に友だちのお金をとったんだろうか。この玲香が。
「おつかいしてた」
信じられなかった。
* * *
試し読みは今回で終了です。続きは幻冬舎文庫『インターフォン』でお楽しみください。
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