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2014年から16年にかけて雑誌「GINGER L.」で連載されていた『しずかなパレード』が、約10年の時を経て刊行された。物語は、東京から長崎県佐世保市の老舗和菓子店へ嫁いだ晶が、ある日突然姿を消すことから始まり、残された夫の伸伍、晶と関係のあった脚本家・武藤、失踪当時四歳だった娘・結生らの視点からその後の歳月が描かれていく。執筆から長い時間が過ぎた物語を、作者自身は今どう振り返るのか――。(取材・文 藤田香織/撮影 古里裕美)
「一緒に来てはもらえんでしょうか」。好きな男がいると夫に告げ、家を飛び出した晶は、深夜のカフェで「カンフーマン」からの誘いを受ける。晶はその日、大道芸人である男の「引退パレード」を見ていた。成り行きで誘いに応じ行方不明となった晶。安否を案じる周囲の人々。膨らんでは萎んでいく思いを抱えたまま生きる、残された者たちの十二年もの歳月を描く。
結果的に長期熟成されてしまった物語
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――まずはやはり、なぜ連載終了から本になるまで、これほどの時間が経ったのか教えていただけますか?
自分のなかで、「どうもうまくいかなかった」印象があったんですよ(笑)。書くのにものすごく苦労して、連載が終わったときに、これはすごく直さないと出せないなって思っちゃって。本にするのはちょっと待っててくださいね、ってお願いしたんです。
――連載が終了した2016年といえば、『ママがやった』『赤へ』『綴られる愛人』が刊行されて、柴田錬三郎賞を受賞された年です。
そうですね。直近の仕事もいろいろあってバタバタしている間にどんどん時間が経ってしまって。ずっと気にはなっていたんですけど……。
――気がついたら10年近くが過ぎていたと。
これはダメだ、失敗作だ、くらいまで思っていたんですよ。それが、一昨年(2022年)テキストデータにまとめてもらったものを久しぶりに読み返したら、「あれ? 面白いじゃん!」ってなって。なんでダメだと思ってたんだろうって、自分でも不思議なくらいで。ほとんど直すところもないな、と(笑)。
たぶんこの間に自分の小説の書き方、方法論なんかも変わってきて、十年前は手探りだった書き方に、だんだん確信が持てるようになったのかもしれません。この間にも沢山書いて読んできたからこそ気付けた進化だといいんですけどね。
――物語のなかでも、晶が行方不明になってから、12年の歳月が流れていきます。スマートフォンが普及し始めた頃で、SNSは今ほど広がっていませんでした。そうした時代背景は、晶の失踪でも重要な部分ですよね。
そうですね。ただ晶は失踪するけれどミステリーにしようとは全然思っていなくて、SNSはなくても問題なかった。晶の行方や事件性についてではなく、突然、人ひとりが行方不明になったけど、周囲はどうすることもできないという状況を書きたかったんです。晶は自分には好きな男がいると、その名前まで夫に告げて出て行った。夫の伸伍はてっきりその男、武藤のところに晶はいると思っていたのに、いない。警察にも届けたけれど、どこにもいない。悲しむことも憎むことも忘れることもできない、そのどれを選べばいいのかもわからない。もしかすると、誰かに攫われたり脅されたり酷い目に遭っているかもしれないけど、どう考えていいのかわからないまま時間が過ぎていくわけです。
――晶と伸伍には四歳になる娘の結生もいます。老舗和菓子店の若奥さんであり、妻であり母であり女でもあるひとりの人間が突然姿を消して、なのに確かなことは何もわからないという状況。
以前、知人のお父さんが散歩に出たまま帰らなくなったという話を聞いたことがあったんです。高齢だったので、いろいろな可能性はあって、でも見つからなくて。不思議だけどそういうことって実際にありますよね。
――自分だったら、と想像せずにはいられなくなりました。晶の失踪から十年以上経って、伸伍が婚活サイトで出会った再婚相手に、法律上、妻はもう死亡したことになっているけど「死別と同じようではなかと」と話す場面も、ハッと胸を突かれて。
いっそどこかで死体が見つかったりしたほうが、辛くても区切りはつけられるかもしれない。でも、まだひょっこり姿を現すかもしれないという可能性を周囲の人は考えてしまう。常に割り切れなさがあって、揺れ続けているものがあるんじゃないかなと。
――同じような思いは視点人物となる全員が抱えているのに、伸伍と浮気相手の武藤やその妻ではまったく立場が異なるし、失踪時まだ四歳だった娘の結生や再婚相手の美園とは、晶に対する温度差もあれば距離感も違う。「近しい人がいなくなった」という事実は共有していても、実はなにひとつ同じ気持ちではないという、考えればあたりまえの差異が、ひとつ大きな読みどころでした。個々の気持ちをひとくくりにまとめてしまう乱暴さが自分のなかにあることにも気付かされてしまって。
いったいいつから、どういうふうに、愛すべきものはがまんできないものになったのだろう――
――個人的には、そもそも地方都市とはいえ老舗の和菓子屋の若旦那に嫁いだ晶が、出会ってしまった武藤の別荘に、「願をかけたの」と下着をつけずに行くエピソードがとても怖かったです。願をかけるほどの何があったのか。その必死さというか思いつめたような切実さを想像すると、たまらなく苦しくなってしまって。
地方都市の近所中みんなよく知っているようなところに嫁いできて、どんなに家族との関係が良くても、これはもう天災、自然災害みたいなもので。昔、「恋は雷が落ちてくるようなものだから」って、瀬戸内寂聴さんがおっしゃってましたが、そういうことって本当にあると思うんですよ。夫は優しいし娘も可愛いしみんな親切だけど、このままここで終わるのかなってふと思ったりしたときに、武藤みたいな男に出会って自分に関心を寄せてきたりしたら、それは愛じゃないかもしれないけど、愛だと思い込んでしまうようなことがあり得るんじゃないかと。大抵の人はそんな気持ちをやり過ごして生きていくんでしょうけど、どうしてもスイッチが入ってしまうことが起こり得る。
――あぁ、それは確かに……。その、自分にもあり得ないとは言い切れなさが、恐れに繋がっているのかもしれません。一方で、武藤の妻である麻理恵の、しゃらっとした外見の描写とは裏腹な、肝の据わった「太い」性格がとても好ましかったです。『照子と瑠衣』のふたりとも通じるものを感じました。
麻理恵は女にだらしのない夫をもって、でもそんな夫を認めていく方向で生きることにした女ですよね。結構私の小説には出てくるタイプの。でも、武藤が小出しにしてくる話から、もしかしたら夫は殺人事件に関わっているのかもしれないと疑いも芽生えてくる。酷い夫とそれでも波風立てずにきたのに、もっと酷いことが起きているのかもしれないとグラッと心が揺れて。そういうことを考えるのが楽しいんです。なんだろう、碁や将棋みたいな。こう来たらこう指して、みたいな。将棋知らないんですけど(笑)。
――晶本人から始まって、視点人物が夫の伸伍、恋人だった武藤、伸伍、武藤、伸伍、伸伍の再婚相手の美園、武藤の妻・麻理恵、娘の結生と変わっていきます。その果てにある最終章は、え? 誰!? という驚きのあとに、ここでこうくるのか! という凄まじい衝撃がありました。井上さんの小説にいつもある、日常のなかの不穏さについて、改めて意識させられもしましたし、目を逸らせない、逸らしちゃいけないものを今回も突きつけられた、という思いです。
視点人物は、わりと場当たり的なところもあるんですけど(笑)、最後だけは、これでいこうと決めていました。やっぱり、晶がどうなったのかを明かさずに終わるわけにはいかないと。
あと、自分としてはどの小説でも、被害者と加害者みたいな明確に分かれた構造で物語を書きたくないんですよね。良い人と悪い人、正しい人と間違った人とはしたくない。どんな人にも屈託があって闇がある。たとえば正しい人の象徴のようなマザー・テレサだって、ときどきすごく邪なことを考えたりしていたはずで、小説家としてはそこを書きたいんです。
――読み終えて『しずかなパレード』というタイトルが改めて沁みるような感覚がありました。自分の心のなかにも落ちているであろう「最初の一滴」を、このまま見ないふりをしていたい気持ちもあり、じっと確認したくなるようでもあって。この最終章について、早く多くの人と話がしたいです。
考え方は人それぞれで、なにが正しくてどれが間違っているかなんて、言い切れないし、絶対的なものはない。世間的には罪でも、その事実だけを書くのは私にとってつまらないことなんです。罪を書くなら、なぜそんなことをしてしまったのか、その人の背景を見せたい。最終章はそんな思いもありました。
それはたぶん、ずっと変わらなくて、ガンジーが誰かを殴りたくなっちゃったとしたらどんな理由があったのか、みたいな、正解なんてどこにもない謎を楽しみながら少しずつ考えて、これからも小説を書いていきたいですね。
しずかなパレード
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私はあの人と付き合うとるとよ。
あの人を好いとると。
そう言い残して、一人の女が姿を消した。
失踪したのか、死亡したのか――。
圧倒的な「不在」がもたらす感情を炙り出す、
不穏でミステリアスな物語。
誰にでも自分だけの神様がいるのかもしれない。
だとすれば、その神様は私の味方であるはずだ。
東京から佐世保の和菓子店に嫁ぎ、娘を育てながら若女将として生きる、晶。誕生祝いの夜、夫から贈られたエルメスのバングルを手首に巻きながら、好きな人がいる、その人のところへ行くと告げ、いなくなった。残された夫・伸吾の怒りと嘆き、愛人・武藤の不審と自嘲、捨てられたと感じながら成長する娘・結生……。「不在」の12年間を、さまざまな視点から綴る長編小説。