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往復書簡 恋愛と未熟

2025.04.08 公開 ポスト

「人からどう見えるか」を気にしながら恋愛をする私は、結果的に恋に溺れ、執着するひらりさ(文筆家)

Dear 綾,

ロンドン行きの航空券を予約したよ。
お値段、24万7千円。直行便は25万円を超えており、目を疑った。2021年、留学時にとったときは17万円弱だったのだ。トランジットありの航空券と睨めっこしているうち、ロンドンだけに滞在するのが惜しくなり、イスタンブール→パリ→ロンドンを転々とする旅程に決めた。

 

3年ぶりのロンドン。綾に会えるのもとても楽しみにしているけれど、一番の目的は、ロイヤル(全世界のバレエファンにとって、あなたの国のThe Royal Balletのこと!)で『オネーギン』を観ること。ロシアの文豪プーシキンの小説をもとに製作された演目です。
2024年から2025年にかけては、世界中で空前の『オネーギン』上演ラッシュなのだそう。私は昨年、シュトゥットガルト・バレエ団の来日上演を観て心奪われた。この3月にはパリ・オペラ座バレエ団に20年以上エトワールとして君臨していた伝説マチュー・ガニオが、オネーギンを演じて引退した。そしてロイヤルも、1月から6月にかけて、断続的に『オネーギン』を上演する。

『オネーギン』はその名の通り、青年・オネーギンの半生を描くバレエ。一体どんな物語が人々の心を掴んでいるのだと思う? 実は彼、バレエ界きってのクズ男として知られている(笑)。
帝都ペテルブルグ育ちで、友人に連れられて地方に滞在するオネーギン。彼は自分に一目惚れして恋文を渡してきた地主の娘タチアナをコケにし、手紙を破り捨てる。都会で酸いも甘いも噛み分け厭世家となったオネーギンからすると、あまりに素朴で分別なく思えたのだ。そのうえオネーギン、田舎が退屈でしかたないと、タチアナの姉にちょっかいを出していちゃつく。オネーギンの親友であり 彼女の許嫁でもあるレンスキーは激怒し、ふたりは決闘に。斃(たお)れたのは、レンスキーのほう。シティボーイの憂鬱は、親友の死という取り返しのつかない事態を招く。

綾の手紙で、ド・ボーヴォワールの言う「本来的な恋愛」(l’amour authentique)について読んだら、『オネーギン』の話をしたくなった。あらすじはオネーギンを中心に紹介したけれど、この作品、恋に恋をしていたタチアナ の成長物語としても鑑賞できるのだ。オネーギンは公爵夫人になったタチアナと再会し、自分の激しい恋情を自覚する。遅すぎる! でも、公爵の不在時、夫婦の居室に入り込んだオネーギンが求愛すると、タチアナもまだオネーギンへの恋情を残していることが判明する。あんなことがあったのに!? まあ、初恋の魔力って強いからね。それでも、タチアナは、オネーギンから渡された恋文を渾身の力で破り捨てる。フィナーレ、観客の目に焼き付くのは、「出てけ!」と扉を指差す、公爵夫人の揺るがない立ち姿だ。

時代背景からすると、タチアナは道徳的に婚姻契約を重んじたように見える。『オネーギン』がいまバレエに翻案されたなら  、オネーギンとともに屋敷を出ていくタチアナが描かれるだろう。あるいはアニー・エルノーが翻案していたら、そうなったかも(笑)。でも、私が見た限り、オネーギンを追い払うタチアナは、むしろ、自立したフェミニストに見えた。オネーギンへの変わらぬ情をさらけだしながらも、恋は風化したことを自覚し、現在の己の生を選び取り続ける。自分に正直であると同時に、成熟した女性なのだ。

綾にとってのフラットな恋愛の話、興味深く読みました。いつも思うけど、綾は過去の恋愛相手たちにも、そのときの自分にも、まったく執着していなくてすがすがしいね! 
徹底的にパーソナルな人だなあと思った。綾は政治を語るのをいとわない人だけれど、自身の恋愛はいつも、世間とのパワーポリティクスから切り離された、独立した島として守っている。さながらシーランド公国のように。

「セカイ系」って聞いたことある? 日本のサブカルチャー・タームなんだけど。主人公とヒロインを中心とした「きみとぼく」の関係性の行く末や心的葛藤が、中間社会やネットワークの動きを介さず、作中の「世界の危機」の動向にそのまま影響する、という展開のジュブナイルを揶揄するものとして普及した言葉だ。「新世紀エヴァンゲリオン」なんかがこれにあたる。綾には、そういうところがみじんもない。恋愛を通じて主人公になる感覚がほとんどなさそう。逆セカイ系だ。
私はセカイ系の女だから、自己の恋愛のポリティカルな側面を、意識しないということができない。つまり、私の恋愛が世界に与える影響を。身も蓋もない言い方をすれば「人から見てどう思われるか」ということだね(笑)。だから、構造をいつでも気にしている。男性ジェンダーと女性ジェンダーで恋愛していること自体に、後ろめたさを感じる。できるだけ、「構造的弱者」や「典型的な日本人女性」にならなくて済む異性愛を求める。
例えば、自分より歳上の男性にsparkを感じられない。2歳上までがやっとかな。マウントされたくないという気持ちが強すぎて、心にシールドを張ってしまう。あとイギリスで恋愛をしなかったことも、これと関連しているかも。「日本人女性」として好意を持たれるのが嫌だった。綾は、日本で「白人女性」彼女として自慢されることに抵抗はなかっただろうか?

そんな性分なもので、先日別れた彼氏は、実は、一回り年下だった 。Tinderでマッチングして話が合ったというなりゆきであって、望んでそれだけの歳下と付き合ったわけではない。ただ、いざ付き合うとなったあとは、私も、彼となら「フラット」でいられるのではないかと期待するようになった。ジェンダー以外は私が強者であるという関係であれば、異性愛規範が二人の対等さを毀損することなく、関係を継続できるのではないかと思ったのだ。
私が彼に火花を感じたのは、3回目の食事のとき。私が急に焼肉を食べたくなり全額奢るつもりで彼を焼き肉屋に誘ったのだけれど、トイレに行っている間に、彼が全部支払いを済ませているという一件があった。しかも、そのせいで、彼は一時的に無一文になり、私が交通費を貸してあげた。男性に奢られても大した感謝を持ったことがなかったけれど、この向こうみずさには、ハートを射抜かれてしまった。どっちもアホでしょ(笑)。彼が私に奢ったのはその一回だけ。あとは私がお金を出した。全額奢るときもあれば、傾斜をつけるときもあった。そのぶん、向こうの経済状況にとらわれずに、私が選んだお店に行けたし、私が泊まりたい旅行先の、私が過ごしたいグレードの宿に泊まった。win-win、とは思わなかったけれど、何も苦じゃなかった。私のほうに余裕があった。体力的にも経済的にも精神的にも。

そんな、異性愛規範の関節を外すような恋愛(英語で言うと、less heteronormative relationship?)が穏やかな安定を迎えられたかというと……、前回書いた通りです。

どうして、私と彼の関係は続かなかったのか? 理由のひとつは、私がsparkに全体重を預けてしまった点があるだろう。物理的に束縛しなくても、気持ちの重さのズレというものは、相手を居心地悪くさせるものだ。『シンプルな情熱』の「私」のような状態だったのだ。さっき、男性と恋愛しているとき「後ろめたさ」を感じると書いたけれど……後ろめたさを乗り越える方法がひとつある。それは火花に身を任せ、酩酊しきってしまうということだ。だからアホな理由で人を好きになるし、恋愛しているとアホになる。そして、ピークが過ぎても、その酩酊に執着してしまう。私はタチアナにはなれない。私にはアニー・エルノーの書いていることがよくわかる。『シンプルな情熱』は人にすすめられて読んで、あまりにも私のことだと思った。前の失恋でどん底だったときには、写経して日々をやり過ごしていた。

「時々、私は、彼はたぶん束の間も私のことを考えないでまる一日を過ごすのだろうなと思った。私には彼が起床するのが、コーヒーを飲むのが、話すのが、笑うのが、まるで私など存在しないかのように起居するのが見えた。四六時中彼のことに囚われている自分の状態とのこの大きなずれが、私にはまったく信じられないことに思えた。どうしてあの人には、そんなことができるのか……。しかし、彼のほうでも、自分のイメージが朝から晩まで私の脳裡をさらないと知ったら仰天したことだろう。」(アニー・エルノー『シンプルな情熱』より)

また、『シンプルな情熱』を書き写すべき時期がきたかもしれない。

「何度傷つけられても、何歳になっても恋ができる、恋愛ができる自分の心の超能力を、私は誇りに思っている。」

恋愛を「できる」と表現するところに、綾と私の違いがある。私にとって恋愛は「してしまう」ものだ。災害だ。『シンプルな情熱』を写経していた時期、同じくらい写経したのは、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』だった。とにかく、平穏な心が欲しかった。在野のまま出家したい気分だった。
それは急にやってくる。タイミングも、火加減も調整できない。エネルギーを根こそぎ持っていく。私のなかの街をめちゃくちゃにしていく。恋愛に哲学的価値があるとすれば、それは、恋愛そのもののワンダーというより、めちゃくちゃになったものを立て直す過程で、副産物として、既存の道徳や異性愛規範を飛び越えられる瞬間があるからなのではないだろうか。混沌だ。
でも、災害だろうが混沌だろうが、結局、個人的なのが恋愛だ。どんなにセカイ系を気取っても、私の恋愛は、世界に影響を与えない。一方で、私の恋愛は、すでに構築された規範に、表象に、周囲の雰囲気に、左右されている。女友達のほうが親密に感じる瞬間が多々あるというのに男性としか交際していないこと自体、そうだと思う。既存の「レンズ」を壊していくには、意図して、政治的に、活動をしていかねばならない。でも、そんなことを意識していたら、恋の火花は消える。サルトルとボーヴォワールの関係にロマンスの置き所がないように思えるのは、必然だ。

恋愛を政治的実践として考えるなら、外部から見たフラットさは大事だ、と私は思う。でも、形式的にフラットさを保とうとしても、個人的実践として見たときに、別の不均衡や歪さを温存していることは多い。私と彼氏のようにね。それを正すには、綾のいうとおり、自由や信頼を相互に確認する努力が必要だ。それがきっと健全さと呼べるものだろう。さらに前提として必要だと思うのが、冷静さだ。もっとわかりやすくいうと、自他の境界を引くこと。
綾が持っているのは、恋愛をする能力もそうだし、恋愛相手や恋愛感情に対して溺れない能力 ではないかと思った。

「私たちはなぜ『恋愛』を語るべきなのか?」

「恋愛」を語るなんて不真面目じゃない? という指摘を受けたという話、おもしろいね!  まあ、恋愛は娯楽で、余暇だからね。あるいは、プライベート を開示すること自体に、不真面目さを感じる、というのもありそう。ビジネスパーソンは、公的な顔だけを見せるものだ。私も、「仕事のアカウントであんなに恋愛の話書いているのすごいですね」と感心(呆然と?)されることは多い。そういうときは「政治的実践です」とうそぶいている。これは半分本心だ。アニー・エルノーがノーベル賞をとったのだって、個人的感情を突き詰めて突き詰めて書くこと自体のポリティクスが評価されたからだろう。

人類、いい加減恋愛やセックスに飽きてもいい頃ではないかと思うし、Z世代の交際経験率は下がっているという話も先日書いたね。職場恋愛はハラスメントの温床として徐々に駆逐されていっている。それでも、恋愛は人々の娯楽ジャンルの大手だし、マッチングアプリ産業はすさまじい勢いで成長を続けている。
エスター・ペレルの“ The State of Affairs(『不倫と結婚』)”って読んだ?  カップルセラピストとして、多くのカップルを診察してきた著者が、アンソニー・ギデンズの親密論やエヴァ・イルーズの現代恋愛論をひきながら、現代のセックスと不倫をひもとくものだ。

「今日、私たちは膨大な実験をおこなっている。(中略)そう、私たちはただセックスをしたいから、セックスをするのだ。私たちのするセックスは、性欲と、まぎれもない自由選択と、そして事実、自己表現のためのセックスである」(エスター・ペレル『不倫と結婚』より)

恋愛を不要とする人々が増えたり、spark=惹かれを経験しないアロマンティック・アセクシュアルが注目されたりする一方で、恋愛を続けている人たちのアイデンティティに恋愛が及ぼす影響は年々高まっていると感じる。他者との親密性を媒介にしてこそ世界とつながれる感覚も、全世界的に増しているだろう。二者間で起きたことをソーシャルメディアに放流する人の多さよ!(私もです)マッチングアプリは人々のセクシュアリティを商品化し、ソーシャルメディアは親密性を通貨にした。人間はすっかり、後期資本主義社会の商品だ。そんな社会でもたらされる恋愛の、惹かれの質は、『シンプルな情熱』や『オネーギン』が書かれた頃とも、だいぶ変わってしまったのではないだろうか。『シンプルな情熱』で描かれているのが恋か愛か、という質問を綾が投げかけてくれたけれど、私としては、その区別よりも、変化の質のほうが気になる。ソーシャルメディアと親密な人間関係のかかわらせ方に関して、綾が普段どういうポリシーをとっているのか、とか。そうしたポリシーを身につけるまでに経験した「失敗」の話とか。

そう、失敗。恋愛や親密性にまつわる事柄を通じて語るべきことの一つはこれだと思う。Relationshipを持つこと/持たないことは、個人が日々細かく経験できる選択であり、プロジェクトだ。他者との関わりでどのような失敗と直面し、どのような対処を取ることにしたか。その対処に応じてどのようにアイデンティティが築かれたか。それは、巡り巡って世界のあり方にもつながる。
綾には先に、フラットな恋愛=うまくいったと思うプロジェクトを聞いてしまったけれど、まず聞くべきことは、「失敗」の話だったかもしれない。どう?

この連載に英題をつけるなら、”Intimacy and Immaturity”と訳すべきだろうね。

さて、ダウンコートやセーターをクリーニングに出してきます。

 

*『オネーギン』のタチアナは、「伯爵夫人」ではなく、「公爵夫人」です。訂正してお詫び申し上げます。(2025年4月9日)

4月25日(金)19時半より、鈴木綾さん、ひらりささんと『シンプルな情熱』オンライン読書会を開催します!

読まずに参加も大歓迎です。詳細・お申し込みは、幻冬舎カルチャーのページをご覧ください。

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まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。

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ひらりさ 文筆家

平成元年、東京生まれ。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動するほか、女性の人生やフェミニズムにかかわるトレンド、コンテンツについてのレビュー、エッセイを執筆。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。

 

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