
たどり着く場所もないが、とりあえず書いてみようと思う。
日曜日、よく日が差している。飼い猫の染子を抱いて、ベランダに出た。
向こう隣りの桜の老木は、満開である。「ソメイヨシノ」は六十数年が寿命と聞く。この桜の木も、もう長くはもたないかもしれない。
染子も、二十数年生きている。
医者からは「もうそれほど生きられないだろう」と言われた。染子は、あまり大きくならないタイプの黒猫で、先日、私のベッドの上で二度目の痙攣を起こした。その後、鼻がつまったのだろう。変なクシャミをして右の鼻から血が飛んで、いつも寝床にしている私のベッドはあちこちに点々とその跡が残っている。
医者からステロイド系の薬を処方されて、今少し治っている。
「そうか、お前も来年の桜は見られんかもしれんのう」
膝の上で丸くなった猫が首を上げた。背中に触ると充分熱い。
黒猫は陽を多く吸収するのだ。
私とて、無傷ではない。3月も終わりだというのに、急に寒くなった日があった。年をとってから、急な尿意をもよおすことが多くなった。銀座まで車で1時間弱、それが耐えられない。駐車ポイントに車を止め、近くの居酒屋に飛び込んだ。若いアジア人の従業員が優しくトイレを使わせてくれた。今まで漏らしたことはないが、チビったことは何度もある。
妻に頼んで、ネットで尿漏れパンツなるものを購入した。届いた品はよくできていて、値段もそれほど高くはない。ボクサー型のパンツは、ふつうのパンツと見分けがつかない。これで大丈夫という安心と、これからはこのパンツを使用するのかという思いが入り交じり、何かプライドがプルプルと震えた。
一体何をしているのか。一体いつまで働くつもりなのか。
だが、一晩寝てしまえば、そんなことは忘れる。
日は照っているし、肘も膝もよく曲がる。サラダとトースト、コーヒー、太いウインナー。ばっちりマスタードを塗って、糖尿と頻尿の薬を飲む。
「そうか」
染子もトイレまでは行くのだが、尻は砂からはみ出していて、玄関の土間に漏らしてしまう。最近では廊下にもその跡が残り、うっかり踏んでしまったりする。
ネットで調べたら、猫用のオムツもあることがわかった。本人(猫)が気に入るかどうかわからないが、とりあえず購入を決めた。やれやれ、来週からはジイサンも染子もそれを着用するのか。
猫のパンツは赤と白の縞で、昨年亡くなった楳図かずおの家のようだ。ただ、このパンツの呼び方だが、他にないのか、メーカーは多分いろいろとつけているのだろうが、世間は「尿漏れパンツ」で通っている。統一した呼び名が欲しい。
「安心丸」はどうか。
「大丈夫、安心丸はいてます!!」
猫も私も、桜の木も、この先長くはない。
染子はわかっているのだろうか。六十数年咲き続けた桜の木は何を想う。
青空が広がっている。
人は死ぬ間際に、走馬灯のように人生を振り返るという。
本当だろうか。本当であってほしいなぁ。人間ばかりではなく、木や草や、馬も猫も。楽しかったことだけが脳に広がる。
桜は六十数年前からそこにあって、この桜並木(昔、この通りはそうであった)を行き交う子どもや大人、カラスやウグイスのことを思い出す。
猫は、初めて食べたサンマの味を。一緒に生まれた兄弟たちとじゃれ合った日々を。
私の楽しかった記憶。たとえば、家族で海に行ったこと。銀座で食べたピザの味。何回も観た『ウエスト・サイド・ストーリー』。恋人ができちゃったり、息子や娘の成長。孫が2人も生まれたり。
青空が広がっている。どこまでも続いている。
生まれてきたものは、いつか必ず死を迎える。この先がそれほど長くないのもわかる。先が明るい理由もない。
家の近くに大きな梅林があった。毎年2月、紅や白の花をつけ、夏の前にはどの木も大きな実をつけ、散歩の人々を楽しませた。だが、そこはいつの間にか公園に変わった。何故かは知らない。なん十本もの梅の木が切られた。区の公園になって、園児たちが遊んでいる。
見事な梅林であった。
何もない公園。昔のような遊具はない。すべり台もブランコも。
真ん中あたりに鉄のしきりがついたベンチがいくつか並んでいる。
私の胸は、なくなったものや人で満たされている。新しいものは要らない。
チャンドラーの小説の主人公・探偵マーロウは、「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」と言った。
そうなのだ。優しくなければ生きる資格はないのだ。
残る人生はわずかであるが、私はこの言葉を道しるべに生き抜くつもりである。
1つだけ願いがある。
あくまで個人的な願いであるが、死ぬるとき、あの尿漏れパンツは勘弁してもらえないか。
猫も私も。
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ジジイの細道

「大竹まこと ゴールデンラジオ!」が長寿番組になるなど、今なおテレビ、ラジオで活躍を続ける大竹まことさん。75歳となった今、何を感じながら、どう日々を生きているのか——等身大の“老い”をつづった、完全書き下ろしの連載エッセイをお楽しみあれ。