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巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある

2025.04.18 公開 ポスト

日本橋、来年も買ってやるからな

「日本橋高島屋で買ってやる」 豪快豪気な成金の、四代続く江戸っ子祖母の“贅沢”が遺したもの古賀及子(エッセイスト)

気鋭のエッセイスト・古賀及子さんの書き下ろしエッセイ『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』より、日本橋と豪快な祖母の思い出をお届けします。

日本橋、来年も買ってやるからな

母は魚屋の娘だ。実家が、東京の赤坂で魚の卸業をやっていた。

河岸へ行って仕入れた鮮魚を街の料亭に配達するのが主な商売で、店での販売も対応するけれど、近くの住民がやってきて魚を買っていく光景はあまり見たことがない。祖父と祖母のほか、私が子どもの頃は数人を雇って店を回して、事務の専任者もひとりいた。お得意先は料亭だから、扱うのは高級魚がメインで、バブルの頃が商売の全盛だったようだ。当時は相当儲かったらしい。

祖母はとにかくお金を使うことが好きだった。魚屋が休みの日はだいたいデパートに買い物に出かける。幼い頃は私もよく連れて行ってもらった。なんでもすぐに新しいものを買って、古いものはじゃんじゃん捨てる。豪快豪気な成金の、四代続く江戸っ子が祖母だ。

贔屓は日本橋の高島屋で、もちろん本物の、筋金入りのお金持ちとは違うから、外商さんがつくような上顧客ではないけれど、とにかく愛して通っていた。私に文具や本を選ばせると自分はフェラガモで靴やスカーフを買い、それから八階の特別食堂に行く。祖母は野田岩のうな重を、私はハンバーグとコーンポタージュスープを頼んだ。思えばあれは帝国ホテルの品だ。ウエーターやウエートレスが注文を取りにきてメモを取らずに覚えて戻っていくことに、これは高級な場所だからだと子どもの頭で感心した。

そんな祖母を祖母としながら、いっぽうの私は質素倹約につとめる子として、育ったのだった。贅沢な祖母に育てられた母は、華美な暮らしへのバックラッシュそのものというところがあった。自分の子には派手なことはさせまいと、質素を好み、倹約的に行動して、わがままをよしとしない、がまんをして、自分のことは自分でするように、そう律して育てられた。

三歳の頃、祖父に抱かれて移動していた私は「じぶんであるく」と言ったそうだ。驚いて祖父が地面におろすと、すたすた歩いて大人についていったと。それは親族のあいだでの伝説となり、及子はえらい、及子はしっかりしていると、たびたびほめられた。

それがそのまま、私の誇りになった。誰かに頼らない、欲しがらない、がまんする、甘えない、それが私を支えた。この信条は、成長するなかで、自分でできないなら何もしない、ということにもつながっていく。

育ちながらにして、どんどん下には妹と弟が生まれていった。生まれる手は止まらず、三年おきにつぎつぎ赤ん坊は登場し、結果全体が五人きょうだいになるまで生まれ止まらない。母は常に妊娠しているか授乳しているか未就学児を追いかけているかの状態で、いよいよ長子の私は贅沢やわがままどころではなくなった。

祖母は、そんな私をいつも陰からこっそり見つめていた。

視線を感じてふりかえると祖母は見ている。目が合う。「なんかほしいもんないか」と、祖母は言う。 祖母が私にすきあらば何か買い与えたいと、贅沢をさせたがっているのは母を通じてよく聞かされた。けれど私は祖母に欲しいものはと聞かれても、いつも誇りをもって「ない」と答えた。小学校の何年生だったか、新しい下着をと母に渡されて、ぶら下がるタグに五千円と書いてあって驚いたことがあった。どうしても私にお金を使いたい祖母が送ってきてくれたらしい。

一九八九年、私が十歳の頃、任天堂からゲームボーイが発表され、発売前から大変な話題になった。どこのおもちゃ屋でも買えず、ちまたには欲しくても手に入れられない子どもがあふれた。

そんななか「ゲームボーイが手に入ったよ」と電話をくれた祖母にも私は「いらない」と言ったのだ。さすがの私もゲームボーイなら欲しがるだろうと期待した祖母ががっかりする声が忘れられない。

「いいのかい? どれだけ並んでも買えないって、それを高島屋で頼んで特別に売ってもらえることになったんだよ、いらないんならよその子にやっちゃうよ」 妹が電話を代わって「私、ほしい!」と元気に言った。 その日の夜、寝床で私は「これはなんだろう」と思った。贅沢は良いことではない。わがままは言ってはいけない。けれど今日、おばあちゃんは悲しそうだった。

なんだろう、これは。

私はとことん勘が悪い。いや、悪いわけではないのだ。勘よくいることに、物事をわかっているかのように振る舞うのに、罪悪感があった。自分は鈍感で、何も知らずにいるべきだと思っていた。愚鈍で、素直でいなければいけない。

ねだることが孝行だと、私が言葉としてくっきり理解できるまでにこのあともう五年かかる。高校生になってようやく私は、ゲームボーイを欲しがらない私になぜ祖母が絶望したか理解できた。おばあちゃんあれ買って、おばあちゃんありがとうと、祖母は言ってほしかったんだ。ずっと。

高校一年生の冬、「おばあちゃん、コートが欲しい」と、やっと言うことができた。祖母の顔がぱっと明るくなったのが忘れられない。白髪を薄い紫に染めた毛がちょっと逆立ったようにすら見えた。勇んで日本橋に連れて行ってくれた。婦人服売り場で何着も試着して、これという一着、グレーのちょっと変わった形のピーコートを選んだ。

祖母は「来年も買ってやるからな」と言って、けれど翌年、肺がんで七十四歳で亡くなった。

乳がんを乗り越えた人だった。私が物心つく頃には乳房が片方無くて、それでも堂々として温泉に一緒に入ってくれた。どぎついオレンジ色のバブを溶かして祖父母の家の小さなお風呂も一緒に入った。窓を開けて入っているのを母に見つかって「ちょっとお母さん、窓閉めてよ」と言われると「見られたってかまやしないよ」と言い返した(母は「自分はかまわなくても、見た人のほうが困るでしょ!」とさらに返した)。

乳がんは寛解しており、肺がんはあらたに罹ったらしい。

煙草が大好きな人だった。魚屋の二階の自宅に近所の喫茶店からコーヒーを出前でとって、一服しながら電話で馬券を買って、じゃあ、おばあちゃん帳面つけてくるからなと言って、店に戻っていく。

*   *   *

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古賀及子 エッセイスト

1979年東京生まれ。エッセイスト。著書に日記エッセイ『おくれ毛で風を切れ』『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』、エッセイ『気づいたこと、気づかないままのこと』『好きな食べ物が見つからない』がある。

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