江戸での生活を始めた彦八と、旧友・武左衛門の前に立ちはだかる売れっ子の辻咄の伽羅一門。彦八は決意する。「鹿野武左衛門を座敷に上げて、伽羅一門に笑話で勝つのだ」。伝説の男・米沢彦八の生涯を描いた注目作。毎週火・木・土の週3更新です。
二章 彦八、江戸へ 〜江戸の座敷比べ
(二)
「ご存知のように、わたくし、かつては志賀屋左衛門という名乗りで、市村竹之丞大夫の一門に入っておりました」
鹿野武左衛門のこの一言で、ざわついていた場がしぃんと静まり返った。
行儀よく正座した姿勢で、ゆっくりと客たちを見回す。
「今からします咄、『堺町馬の顔見世』は、まさに何の因果でしょうか、芝居座で大失態した、ある愚かな役者めのお咄でございます」
丁寧に一礼をした後、小気味よい柏手をひとつ打った。窓を開け放ったかのように、場の空気が一変する。
襖の隙間から見る彦八と石川流宣は、力強く頷いた。
鹿野武左衛門は首を右に向ける。
表情を引き締めると、「ほお」と客たちから嘆息が漏れた。こうして見ると、器量の良さが際立つ。
『これ、よいか甚五郎』
どうやら、芝居の主役を演じているようだ。
次は素早く左を向いて、両肩を落とし首を前に卑屈に突き出した。
『ああ、これは竹之丞大夫。わたくしのような、入門したばかりの端役に声をかけてもらえるとは、一体なんでございましょうか』
右に向き直った時には、もとの器量良しの顔に戻っていた。
『うむ、芝居において大切なことを教示しようと思うてな。客人たちの声に応えるのが、何より大事なこと。馬の後ろ足という端役といえど、名乗りを呼ばれればしかとお応えせよ』
「馬の後ろ足」というところで、くすくすとくすぐられるような笑いが起こった。
『へえ、わたくしも芝居好きですから、しかとそのへんの呼吸は心得ております』
『うむ、ゆめゆめ、その心得忘れるでないぞ』
端整な顔のまま、腕を大きく振って立ち去る仕方が終わると、すぐに新入りの甚五郎の卑屈な顔に戻った。
『ああ、これは親方、今日はよろしくお願いいたします』
反対側を向き、髭をしごく仕草と共に重々しく口を開く。
『うむ、それはそうと甚五郎、お前に花(贈りものの花輪など)が届けられておるぞ』
鹿野武左衛門演じる端役の役者が、体を仰け反らせて驚く。慌てて芝居小屋の入口へ行く仕方をする。
『そこには三尺(約九十㎝)ほどの作り物の蛸がのった花が置いてあったのです。「甚五郎殿へ」と、墨書された紙まで貼ってあるではないですか』
客たちの顔から徐々に笑いが消えていく。
『いいか、甚五郎』
腕組みした親方が語りかける。
『言っておくが、お前の役は馬の後ろ足。初日は、その役に徹するのが肝要ぞ。いくら、これほどの花を贈られようとも、役者として客の声に応えて芝居を台無しにすれば、どうなるかわかっておるな』
鹿野武左衛門は、並ぶ商人たちを確かめるように見回した。
「そう言われて困ったのが、甚五郎。竹之丞太夫は、客の声に応えよ。親方には応えるな。困惑するうちにとうとう芝居は始まり、馬の後ろ足として舞台に出ることになったのです」
商人たちが音をたてて唾を飲み込んだ。
鹿野武左衛門こと志賀屋左衛門の舞台で逃亡した逸話を知らされているだけに、顔は真剣そのものだ。
勝ったな、と彦八は思う。
すでに客は、こちらの術中にはまってしまっている。甚五郎が逃亡してしまうのではないか、と誰もが心配顔で聞き入っている。そう、かつての鹿野武左衛門のように。
鹿野武左衛門は続ける。
『さて甚五郎が馬の後ろ足として、主役の竹之丞太夫を上に乗せて出るや否や、沸き起こったのが悪友たちの大喝采。「いよぉ、馬様、うまぁさぁまあ」口に両手を当てて、悪ふざけの限り。困ったのは、甚五郎。親方の指示と竹之丞の指示の板挟みになり、狼狽えながらも、とうとうこう応えたのです』
客たちの緊張が極限に達したことが、襖ごしからもわかった。
そんな様子を尻目に、鹿野武左衛門はごく何でもない仕草とともに、立ち上がった。
両腕を曲げて、顔の高さにして言う。
『ヒヒーン』
襖のすぐ裏側で聞き耳を立てていた彦八は、一瞬襖に巨大な何かが当たったのかと思った。遅れて、それが笑い声だと悟る。
甚五郎が逃亡するとばかり思っていた客たちは、完全に不意をつかれたのだ。
彦八は嬉しさの余り拳を畳に打ちつけるが、それさえも笑い声が掻き消した。
振り向くと、歯ぎしりする伽羅小左衛門と四郎斎の姿が目に入った。
放心したように座りこむ石川流宣の横に、膝をついた。
「やりましたね」
石川流宣からの返答はなく、かわりに落雷のような喝采が巻き起こった。見なくとも、何が起こったかわかる。後ろ足がいなないて客の声に応えたために、馬の背にいた主役、竹之丞太夫がぶざまに転げ落ちた仕方を、鹿野武左衛門が披露したのだ。
「やるねえ」と、賞賛の声を上げたのは、西東太郎左衛門や休慶ら他の辻咄たちだった。その横では、黒羽織を着込んだ伽羅一門が顔を青ざめさせている。
すでに鹿野武左衛門は別の咄へと移っている。襖を蹴るかのような笑い声は絶えることはなかった。
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